[#表紙(img/表紙.jpg)] 意味の変容 森 敦 目 次  寓話の実現  死者の眼  宇宙の樹  アルカディヤ  エリ・エリ・レマ・サバクタニ  意味の変容 覚書 [#改ページ]   寓話の実現  壮麗なものには隠然として、邪悪なもの、怪異なもの、頽廃したものが秘められ、夜光のような輝きを放っている。いまもし、壮麗なものを世上の謂うところに従って、崇高なもの、美麗なもの、厳然としたものであるとしてみよう。たんなる空しい語彙の置き換えに終わって、壮麗なものを壮麗なものたらしめる、夜光のような輝きを放つことはできないであろう。それでは、壮麗なものとは崇高なもの、美麗なもの、厳然としたものでないというのか。邪悪なもの、怪異なもの、頽廃したものであるというのか。  ともあれ、この崇高なもの、美麗なもの、厳然としたものと、邪悪なもの、怪異なもの、頽廃したものとは、互いに境界によって内部、外部を形成するところの反対概念である。なにを以て内部となし、外部となすか、その厳密な定義はやがて明らかにされて行くであろうが、このようにして壮麗なものは、反対概念を包括する全体概念であると言っていい。  いや、この崇高なもの、美麗なもの、厳然としたものと、邪悪なもの、怪異なもの、頽廃したものが、境界によっていずれが内部をなすともなく外部をなし、外部をなすともなく内部をなすところに、ひとびとを憎悪させ、嫌悪させ、忌避させながらも、なお戦《おのの》かせ、魅了し、誘惑する幻術めいたものを感じさせる。壮麗なものがなんぴとにも眼をそむけることを許さず、しかもなんぴとにも眼をそむけさせずにおかないというのは、おそらくこのためなのだ。したがって、ここに矛盾があり、全体概念には必ず矛盾があるということ、全体概念に矛盾あらしめるところのものは、そもそも境界にあるということを知らねばならぬ。もし完璧を期するなら、境界に対応する中心にも言及しなければならぬが、しばらく措こう。  類も稀な壮麗な蛇、わたしが昼なお暗い森深く身を隠し、じっとおのれに耐えているのは賢明であると言わねばならぬ。ひとたびわたしが姿を隠さず現れれば、わたしは壮麗なものの中でも、もっとも壮麗な蛇なるが故に、世に比類なき幻術と感じられ、いかなる光景を呈するかわからない。加うるに、強く鋭い牙を持ち、恐るべき毒を含んでいる。それはおのれを憎悪し、嫌悪し、忌避するものを、蠱惑するがごとく斃すことができる。しかし、このようにしておのれを憎悪し、嫌悪し、忌避するものを斃すことができるということが、その憎悪と嫌悪と忌避を果てもなく募らせ、かえっておのれの生存をすら危うくするだろう。  にもかかわらず、ひたすら壮麗であろうと冀い、げんに壮麗なるに似ることのできた無数の蛇たちがいるのだ。壮麗なるに似たといっても、見たところ壮麗なものの持つべき崇高なもの、美麗なもの、厳然としたものに欠けると言うのではない。ただ、そこにはいかにも隠然として夜光のように輝く邪悪なもの、怪異なもの、頽廃したものが秘められていない。  よって以てひとつの全体概念を形成するところの反対概念がないのであるから、境界によっていずれが内部をなすともなく外部をなし、外部をなすともなく内部をなして、ひとびとを憎悪させ、嫌悪させ、忌避させながらも、なお戦かせ、魅了し、誘惑する幻術めいたものを感じさせもしない。いわんや、壮麗なものがなんぴとにも眼をそむけることを許さず、しかもなんぴとにも眼をそむけさせるようなものもなく、いたずらにひとびとの笑いを誘うにすぎない。これは謂うところの滑稽ですらない、単なる錯誤である。反対概念をなさしめる境界なしでは、内部外部をなさぬにもかかわらず、なお内部外部をなすがごとく考え、みずから全体概念をなすと見做して澄ましている。境界こそは内部外部の変換の鑰《かぎ》であり、変換こそは認識の鑰である。  すなわち、壮麗なるに似た無数の蛇たちは、なまじい壮麗な蛇に似ているばかりに、かえって似ても似つかぬ滑稽なものになっているのも気づかず、ただ健康で、無邪気で、明るく、その持つ牙に毒さえも含まず平然としている。いや、その持つ牙に毒さえも含まぬということから、せめても毒を持つかに見せようとする狡猾さが、いささかの虚栄と相俟って、壮麗なるに似た無数の蛇たちに、壮麗であることを冀わせたのだ。笑止であると言わねばならぬ。  昼も暗い森深くにも、月光が流れれば、その幾千万の木の葉は、幾千万の鱗のように輝きはじめる。こうした大自然の壮麗さの中にあっては、壮麗な蛇の壮麗さのごときも、ものの数でなくなるだろう。かくて、壮麗な蛇もまたその壮麗さから、解き放たれると思うかもしれない。しかし、壮麗な蛇の幾千万とない鱗もまた、幾千万の木の葉のように輝き、崇高なもの、美麗なもの、厳然たるものは、いよいよ邪悪なもの、怪異なもの、頽廃したものを伴って、幻術は果てもなく幻術めいて来る。ここに壮麗なものの真に壮麗なるゆえんがあるのだ。  幸いにして、ものみなは深い眠りに落ちている。かかるとき、壮麗な蛇は僅かに餌を求めねばならぬ。なにものの眠りも妨げまいとして、ひそやかに動く。しかし、眩ゆいばかりに輝く草々を縫って、せせらぎ[#「せせらぎ」に傍点]も立てぬ流れのようにうねりながら、突然ハッとして、総身の鱗の逆立つ思いにかられた。大鎌を月光に輝かせて突ッ立つ男、壮麗なるに似た蛇どもの飼育者! その姿のなんと黒々として大きくみえたことだろう。  眩ゆいばかりに輝く草々の間には、すでに生殖のために集うた壮麗なるに似た無数の蛇たちが胴を輪切りにされ、頭と頭、尾と尾を絡みあわしながら、血にまみれてころがっていた。これもまた致し方ないと言えるであろう。壮麗なるに似たこれら無数の蛇たちは、わたしのように昼なお暗い森深く身を隠そうとはしなかった。じっとおのれに耐えていようとはしなかった。いや、昼なお暗い森深くから、身を現そうがために、せめても壮麗なるに似た蛇になろうとして、壮麗なるに似た蛇になったのである。  さもあれ、わたしは鎌首をもたげて身構えたが、それはたんに身内を走る戦慄がそうさせたにすぎない。むろん、その戦慄がおのれの毒を含む牙の、大鎌に刃向こうて敵すべくもないところから来ていると言っても嘘になるであろう。しかし、なによりもみずからも壮麗ならんとして大鎌をつくり、その生皮を剥ごうとして壮麗なるに似た無数の蛇を飼育生殖させ、生殖に集うものをかくも無惨に殺戮して顧みぬ者を憎悪し、嫌悪し、忌避させたのだ。わたしには予感ともいうべきものがあった。その予感ともいうべきものが、一層憎悪し、嫌悪し、忌避させたのである。  わたしはふたたび幾千万の木の葉が、幾千万の鱗のように輝く森深く戻ると、その幾千万の鱗を幾千万の木の葉のように輝かしながら想うのである。生殖力こそは愚者の持つ最大の武器である。やがて、壮麗なるに似た無数の蛇は無惨な殺戮にもかかわらず、あたりに満ち溢れるであろう。そして、いつの日か無惨な殺戮にあうとも気づかず、健康に、無邪気に、明るく振る舞うであろう。あるいは、壮麗であるために絶望的な孤独を強いられ、ひそかに残り餌を拾わねばならぬのを笑っているかもしれない。  しかし、わたしはこの笑いを、笑い返す気はなかった。かえって、壮麗なるに似た蛇のように、いつの日か無惨な殺戮にあうとも気づかず飼育され、健康に、無邪気に、明るく振る舞うようになりたかった。この牙の持つ恐るべき毒がなんだというのか。いたずらにおのれを絶望的な孤独におとしいれるばかりか、おのれのおちいった絶望的な孤独を守るにすら役立たぬ。されど、脱皮のときが来る。神よ、そのときは恩寵を垂れ、脱皮とともに壮麗なるを捨て、醜く、浅ましく、卑しきものたらしめ給え。よしんば壮麗であることを冀おうとも、もはや壮麗なるに似ることもできぬ者たらしめ給え。  やがて、 脱皮の時が来た。わたしは祈りの聞きとどけられんがためには、 呻き、 のたうち、 みずからがみずからを生む苦しみも、ものの数ではないと思った。だが、朦朧として目眩めきながらも次第に意識を恢復して、月光の輝きの中に見たものはおどけきった透明な表皮にすぎず、神にすら挑めというごとく、いよいよ壮麗な蛇になって来たわたし自身を見いださねばならなかったのである。わたしは知った。内部が内部といわるべきものになったとき、それもまた全体概念をなす。とすれば、当然反対概念が含まれて来なければならぬ。このようにして、壮麗なるに似た蛇も内部へと密蔽することによって、壮麗な蛇となる。寓話の実現者の恐るべき幻術! あるいは大鎌を月光に輝かせて突ッ立った男、あれこそはその実現者ではなかったか。  見よ、広々とした畑地いちめん、大根が植えられている。大根は健康で、無邪気で、明るい。ほっておけばみずからの充実において大地から抜け出、身の程も知らず天を犯すの概あるごとき勢いを示し、ときに大風に見舞われて、累々とその身をころがす。ある人はこれを恐れて、しばしば盛り土をしてやる。しかし、その人にいたわりの心が、あるなどと思ってはならない。いずれはみずからの手で、これら栽培した大根を引き抜こうとしているのだ。それは壮麗なるに似た蛇を飼育繁殖させ、やがては殺戮しようとする男と、なんの変わりはない。  ところが、一体どうしたというのか。その男は大根のひとつを選んで、その生い繁った葉の上に一枚の四角な硝子板を載せ、硝子板の四方に鉛のおもりを置いた。生い繁った葉はまだそのためにヘシ折られはしないが、たちまちヘシ折られんばかりになった。しかも、男は低速度カメラを据えて、これを撮ろうというらしい。  撮り終わると試写室にフィルムを持ち込み、スクリーンに向かってこんどは高速度で映しはじめた。すでにスクリーンには巨大な大根があり、ヘシ折られんばかりになりながらも、渾身の力を振り絞って右の葉、左の葉、前の葉、後ろの葉、その他もろもろの葉で、鉛のおもりの置かれた硝子板を支えている。  だが、この愚かな大根もこの不当な圧迫に憤り、いかにしてこれから逃れるべきかを考えでもするように、徐々ながらも右の葉、左の葉、前の葉、後ろの葉、その他もろもろの葉を動かそうと試みはじめる。それにつれて硝子板も僅かに傾き、鉛のおもりも動くのだが、互いにしめしあわせて、意地悪を楽しんででもいるように、ずれたと思うと戻り、戻ったと思うとずれて、いよいよ手痛く大根を圧迫する。  このようにして、硝子板もまたこれを逃れようとすれば、逃れようとする者をますます苦しめるという意味では、密蔽して内部をなさしめるところの境界をなしている。おおよそ、かかる苦しみは耐えるよりほかはないと思い諦めさすものだが、大根は断じて屈しようとしない。われとわが葉をいたずらにヘシ折るかもしれぬのも恐れず、硝子板のかすかな動きに乗じて、右の葉でけり、左の葉でけり、前の葉でけり、後ろの葉でけり、その他もろもろの葉でけって、無謀な戦いをやめようとはしないのだ。  ハッと思う瞬間硝子板は傾いて、鉛のおもりはあわてはじめる。しかし、そのあわてることが一層硝子板を傾け、ついには硝子板の傾きそのものが硝子板を傾け、大きく傾いて来たと見るうちに大根の葉を滑り落ちる。硝子板は大地に砕けて、水しぶきにも似た破片を静かに飛び散らせ、鉛のおもりは道化者のように、ゆるゆると跳ねながらころがって行く。  すでに大根は右の葉、左の葉、前の葉、後ろの葉、その他もろもろの葉をひるがえしている。怒れるもののついに征服し得たりとでもいった大根の歓喜は、大いに男を満足させた。一旦、大根を密蔽して全体概念をなさしめた内部から、内部外部を以て全体概念をなすところのものに変換することに成功したと思ったからであろう。しかし、境界をなしていた硝子板はもはやない。境界なくしては内部外部はなく、全体概念をなすことはあり得ない。いや、かえって、全体概念を持つものから、壮麗なるに似た蛇のように全体概念を持たぬものへと解き放って、愚かな大根から大愚者の寓話を実現しようとしたのかもしれぬ。してみれば、このいたずら者もその実現者として、大鎌を月光に輝かせて突ッ立った男と、なんの変わるところはない。  類も稀な壮麗な蛇、わたしはわたしの中に幻術があると思っていた。ところが、まさにわたしが幻術の中にあろうとしているのだ。おお、木々を裂く嵐から、潮騒のどよもす吹雪から、荒涼とした岩石の山頂から、光の柱の立つ密雲から哄笑が聞こえる。 [#改ページ]   死者の眼  もう会えぬと思っていたが、よく来てくれたね。 「そう言えばそうだな。ぼくもやっぱりそんな気がするんだ。戦争はすでに起こっている。みな別れたら、もう会えぬような気になってるんじゃないかな」  そうだな。 「しかし、大きな工場だね。こんなに大きいとは思わなかったよ。もうこれで終わりかと思ってると、また建物があり、その各階に無数の工員がいる……」  大きいというわけ[#「わけ」に傍点]じゃないが、ここは謂わば壺中の天だからね。 「壺中の天? 成程なア。まさに世界だ」  世界? おなじことだが、ぼくらは全体概念を形づくっていると呼んでるんだよ。そうだ。 [#ここからゴシック体] [#1字下げ]任意の一点を中心とし、任意の半径を以て円周を描く。そうすると、円周を境界として、全体概念は二つの領域に分かたれる。境界はこの二つの領域のいずれかに属さねばならぬ。このとき、境界がそれに属せざるところの領域を内部といい、境界がそれに属するところの領域を外部という。 [#ここでゴシック体終わり] [#挿絵(img/fig1.jpg、横393×縦237)]  内部+境界+外部で、全体概念をなすことは言うまでもない。しかし、内部は境界がそれに属せざる領域だから、無辺際の領域として、これも全体概念をなす。したがって、内部+境界+外部がなすところの全体概念を、おなじ全体概念をなすところの内部に、実現することができる。つまり壺中の天でも、まさに天だということさ。いつか『壮麗な蛇』の話をしたね。覚えていてくれただろうか。あれはこれを寓話化したもんだ。 「全体概念か。そのせいかな、こうしていると、なにか安堵のようなものを覚えるよ」  しかし、きみが安堵のようなものを覚えるというのは、それとはまた別じゃないのかな。空はだんだん敵機に侵されて来る。そんなときには、こうしてそれに立ち向かう兵器をつくっているというだけでも、慰撫されるもんだよ。もっとも、そんなものはみずからに対してなされた幻術というもんだがね。 「それはこの工場でつくられているものが、兵器といっても光学兵器にすぎないということかい?」  必ずしもそうではない。この工場でつくられているものは、特に照準眼鏡と呼ばれている。むろん、望遠鏡の一種にすぎないし、兵器の眼として兵器そのものとは言えないが、兵器以上のものと言うことはできる。ところで、内部と外部は互いに対応しているということを知っているかね。 [#ここからゴシック体] [#1字下げ]いま、中心をOとし、半径rの円を描く。Oから任意の直線を引き、その線上の円内に点A、円外に点Bをとり、OA・OB=r2とすれば、円内の任意の点には、必ずこれに対応する円外の点がある。 [#ここでゴシック体終わり] [#挿絵(img/fig2.jpg、横354×縦242)]  すなわち、内部は外部と対応する。ところが、内部は境界がそれに属せざる領域、外部は境界がそれに属する領域と定義した。 [#ここからゴシック体] [#1字下げ]OAはrより小さく、OBはrより大きいか等しいから、OAが0になれば、OA・OB=0になってOA・OB=r2は成り立たない。またOB=rになっても、OAはrより小さいから、OA・OB=r2は成り立たない。 [#ここでゴシック体終わり] [#挿絵(img/fig3.jpg、横358×縦253)]  中心と円周における矛盾は重大だ。日月星辰の運行にも説き及ぼすことができるだろう。しかし、境界としての円周によって分かたれた、AとBとの対応を以て内部と外部を対応させるという考えはしばらく措く。境界がそれに属せざるところの領域としての内部が、そのまま境界がそれに属するところの領域としての外部に変換[#「変換」に傍点]して、内部と外部が対応するとしよう。そのときはただ、中心Oを無限遠点と見做せばいい。内部といい、外部というも、無限に孕まれるか、無限を孕むかの違いにすぎない。これも幻術だがね。どうもこの中心と境界が曲者だが、われわれが全体概念に立ち向かおうとすると、必ずこうした矛盾が生じる。そこで、ぼくらはちょっとした幻術を用いなければならぬ。しかし、ちょっとした幻術を用いれば、ぼくらは生者の眼だけでなく、死者の眼を持つことができる。 「死者の眼? つまり、きみたちの望遠鏡は、生者の眼で見ることのできるこの世ばかりでなく、死者の眼でしか見ることのできない、あの世をも見ることができると言うのかい」  まアね。 「しかし、きみらの望遠鏡が兵器の眼として、いくら人を殺戮したとしても、しょせん彼の死、彼等の死にすぎない。きみにとってきみの生をかえって強烈に感じさせるというだけで、きみの死によってきみの見得る、あの世というようなものではないだろう」  きみはまるで、あの世があるみたいなことを言うね。 「どうして? よしんば、死がぼくの眼前に迫っているにしても、ぼくは生きているかぎりは生きている。すなわち、この生を逃れることはできないから、死を知ることができるはず[#「はず」に傍点]はない、と言っているんだよ」 [#挿絵(img/fig4.jpg、横374×縦245)]  しかし、きみのその問いがすでに答えを孕んでいる。きみは生きている限りは生きて、この生を逃れることができないと言った。しかし、幽明境がそれに属せざる領域としてのぼくらの生は、そのままで幽明境がそれに属する領域になる。どうして生の中に、死を実現することができぬだろう。すくなくとも、外部は内部に実現することができるのだよ。いや、内部を外部に実現することもできる。ところで、 [#ここからゴシック体] [#1字下げ]内部は境界がそれに属せざる領域なるが故に密蔽されているという。且つ、内部は境界がそれに属せざる領域なるが故に開かれているという。つまりは、密蔽され且つ開かれてさえいれば、内部といえるのだから、内部にあっては、任意の点を中心とすることができる。 [#ここでゴシック体終わり]  人間はいかなる点も中心として立つことができるが、必ずそこに矛盾として実存する。ついでに言っておくが、境界もまた矛盾として全体概念を形づくるものであるから、全体概念をなすためには、必ず矛盾が孕まれねばならない。 「きみは『壮麗な蛇』が自分の中に幻術があると思った。ところが、まさに自分が幻術の中にあると言ったね。そんなふう[#「ふう」に傍点]だよ、ぼくは。やっぱり、きみは瑜伽山《ゆかやま》なんて不思議なところにいたからかな。瑜伽とはなんだい」  ヨーガの真言さ。主観と客観を一致させて、空《くう》を悟ることさ。これもそれ、人間はいかなる点も中心として立つことができるが、必ずそこを矛盾として実存するということを、前提としているんだよ。 「主観の客観のと簡単にいうが、そもそも主観とはなんだね」 [#挿絵(img/fig5.jpg、横349×縦127)]  さア、ぼくにもわからない。ただこう考えているんだ。方向を持つ考え方、つまりベクトルだとね。だって、ベクトルは広い意味で方向を持つ考え方だろう。 「じゃア、客観も方向を持つ考え方、つまりベクトルかね」  すくなくとも、向きが反対のね。 [#ここからゴシック体] [#1字下げ]主観と客観が一致すれば空《くう》になるという。ところが、二つのベクトルは互いに向きが反対で、しかも相等しく、一直線上にあるとき0になる。空はこの0である。 [#ここでゴシック体終わり] [#挿絵(img/fig6.jpg、横380×縦251)]  よく言うじゃないか。『孔子ハ人間デアル』といえるとき内部思考を外部思考に変換し、対偶命題をとって『人間デナイモノハ孔子デナイ』といえる。このとき、『孔子』および『人間』はいずれも境界がそれに属せざる領域で内部であり、『人間デナイモノ』および『孔子デナイモノ』は、いずれも境界がそれに属する領域で外部である。一歩を進めて、内部思考が自明とされる『未ダ生ヲ知ラズ。焉ゾ死ヲ知ラン』といえるとき、これを外部思考に変換し、対偶命題をとって『既ニ死ヲ知ラバ何ゾ生ヲ知ラザラン』といえる。言うまでもない、『未ダ生ヲ知ラズ。焉ゾ死ヲ知ラン』は境界がそれに属せざる領域で内部であり、『既ニ死ヲ知ラバ何ゾ生ヲ知ラザラン』は境界がそれに属する領域で外部である。ぼくは主観はわからないと言った。しかし、極致としての主観はわかった。『未ダ生ヲ知ラズ。焉ゾ死ヲ知ラン』がこれである。ぼくは客観はわからないと言った。しかし、極致としての客観はわかった。『既ニ死ヲ知ラバ何ゾ生ヲ知ラザラン』がこれである。これらの対決において、ぼくは主観客観の一致を考える。 「そうだ、きみは内部と外部が対偶空間をなす、と言おうとしているんだな」  ちょうど、そこに台に取り付けた望遠鏡が出してある。すこし暗くなったが、出てみよう。 [#ここからゴシック体] [#1字下げ]望遠鏡は、これによって内部をなすところの領域の中に、外部をなすところの領域を実現し、この内部をなす現実が、まさに内部であることを証明しようとするものである。 [#ここでゴシック体終わり] [#挿絵(img/fig7.jpg、横383×縦261)] 「ほう。こうして出てみると、眺めもまた一段といいんだね。びっしり人家で埋まっているが、ゆるやかな傾斜で窪地になっていて、はるかに彼方の丘になっている」  いまでは、調整も検査もぜんぶ作業場の中で人工的にやるから、そんな必要はなくなったんだがね。もとは眺めによって調整することが多かったから、こうした工場はみな大きな眺望を持つところに建てられたものらしいんだ。 「あのあたりももうこの工場かい。中にはいってバカに大きな工場だと驚いたが、いよいよもって大きな工場だね」  そうかね。こうして眺めると、驚いたほどでもないという気がするかと思ったよ。街が無限の拡がりを思わせ、工場の大きさなどむしろ高が知れたような気がするはず[#「はず」に傍点]なんだが、この工場の果ても工場関係者の住宅になっている。そのため、どこに境界があるともわからぬところが、きみにそんな気をさせるというだけじゃないのかね。とにかく、掛けてその望遠鏡を覗いてみたまえ。 「なんだ。望遠鏡の円い視界に浮かぶ十字線の上に、人家の間の教会の尖塔の十字架が、重なっているというだけじゃないか。それとも、これがそのきみの詩、 [#ここから1字下げ]  闇が覆って来た  生命ある樹々は姿を隠し  死んだ木が白く浮き上がって  生命の形を現す [#ここで字下げ終わり]  なのかね」  まあ、そのうち闇が覆って来る。死んだ木が白く浮き上がって、生命の形を現すだろう。きみがその望遠鏡の円い視界の中に見ているのは、外部をなすところの領域が実現されたものだ。すでに現実ではない。 「現実でない?」  そうだよ。いいかい、いまぼくがこの望遠鏡の対物レンズ——外部に向かっているレンズをそう呼ぶんだがね——を半分、掌で覆ってみるよ。それでも、視界は円いままですこしも欠けないだろう。 「欠けないね。きみが望遠鏡の対物レンズ——と言ったかね——を、きみの掌で覆ってるかどうかもわからないぐらいだ」  もっとも、光学的には対物レンズを浸透して来る光量が、少なくなるわけだから、きみの見ている映像は、それだけ暗くなってるんだがね。しかし、これがもし円く残して他を墨で塗った、ただの板ガラスを通して見るんだったら、すぐこうして覆ったぼくの掌が見えてしまうだろう。それはただ現実でしかないからだよ。 「そうかなア。しかし、円い視界にあるものは、ただあるように見えるだけで、格別大きくなっているとも思えないね」  そりゃア、そうだろう。これは倍率一倍の望遠鏡だからね。 「倍率一倍の望遠鏡? そんなものをなにに使うんだね」  わかってるだろう。この工場でつくられているのは、すべて照準眼鏡なんだ。 「照準なら照星や照門がいるはずじゃないか。しかし、ここには円い視界に浮かんだ十字線しかない」  もとは照準にはみなきみらの知ってる照門や照星を使っていたんだ。ぼくらが照門を通して照星を見るということは、銃身に平行した直線を得るということで、その直線の延長上に標的が来るように銃口を向ければ、すなわち照準したということになるのだからね。しかし、ぼくらには両眼による視差というものがあり、それを克服するためにはすくなくとも片眼を閉じなければならない。片眼を閉じたにしても、照門、照星、標的のいずれか一つを見定めようとして、眼の焦点を合わせると、他の二つを見ることが困難になるんだよ。ところが、凸レンズには極めて簡単な性能があるんだ。 [#ここからゴシック体] [#1字下げ]対物レンズは凸レンズだから、無限遠にあるものをその焦点面に結像させる。なお、望遠鏡においては、一点より放射される光線が、平行とみなされるとき、その一点を無限遠にあるという。 [#ここでゴシック体終わり]  これを利用して倍率一倍の望遠鏡はつくられる。 [#ここからゴシック体] [#1字下げ]倍率一倍のこの望遠鏡は互いにその焦点面を合致させ、これと対称的な位置にそれぞれ対物レンズ、接眼レンズとして、相等しい焦点距離を持った凸レンズを置いたものである。 [#ここでゴシック体終わり] [#挿絵(img/fig8.jpg、横385×縦222)]  このような倍率一倍の望遠鏡においては、外部は焦点面上に実現される。したがって、焦点面上に十字線を刻んだ焦点鏡を置けば、ただ十字線の交点その一点だけを見ればいいということになるが、それでは外部は倒立したものになる。そこで、ちょっとした幻術を使う。といって、驚くほどのものではないが、正立レンズを使って、倒立したものを更に倒立させて正立させる。きみが覗いているのがそれなんだ。 [#挿絵(img/fig9.jpg、横387×縦222)] 「内部外部が互いに対偶空間をなすからかね」  面白いね。さっきからきみはそんなこと言ってたが、考えてもいなかった。ひとつ、考えてみよう。 「いやア、きみが『未ダ生ヲ知ラズ。焉ゾ死ヲ知ラン』から、いつの間にか『既ニ死ヲ知ラバ何ゾ生ヲ知ラザラン』を引き出して来たのに驚かされたんだよ」  まア、きみがそれを覗くために閉じていた、片方の眼もあけてみたまえ。 「片方の眼もあけろというと、両方の眼で同時に内と外を見るのかね。……なんのことはない。円い視界もなくなって、まるで望遠鏡なしで見てるようだ」  それが倍率一倍の望遠鏡たるゆえんで、これからして望遠鏡の倍率なるものを定義することができる。 [#1字下げ]望遠鏡によって得られた外部の実現が、見た眼の現実と接続[#「望遠鏡によって得られた外部の実現が、見た眼の現実と接続」はゴシック体]するとき、その倍率を一倍という。 「接続[#「接続」に傍点]? じゃア、これからして他の倍率も定義することができるわけだ。 [#1字下げ]望遠鏡によって得られた外部の実現が、見た眼の現実と断絶[#「望遠鏡によって得られた外部の実現が、見た眼の現実と断絶」はゴシック体]するとき、その倍率はもはやすくなくとも一倍ではない。  このようにして、倍率一倍の望遠鏡から発達して、次第に高い倍率の望遠鏡ができていったんだね」  それが必ずしもそうではない。望遠鏡によった実現が、見た眼の現実より大きく見えるからこそ、珍重されたのだからね。ガリレイがはじめてつくったのも、倍率九倍ぐらいの望遠鏡じゃなかったのかな。そして、たしか倍率二十数倍の望遠鏡までつくったはずだよ。それがあまりに素晴らしかったので、学者たちから幻術扱いされた。彼等はこの眼で見たように見えなければ、真実とは思えなかったんだろう。いわば実現と現実が断絶[#「断絶」に傍点]していたために、実現のいかなるものかを考えてみようとはしなかったのさ。ガリレイはむしろ望遠鏡の倍率を低くして、ついに倍率一倍に至ったとき、実現と現実が接続[#「接続」に傍点]し得るものだということを示してやるべきだったのだ。 「どうして、ガリレイほどのものがそうしてみせなかったんだろう」  そりゃア、ガリレイその人がだれよりも、この眼で見るより大きく見えるからこそ、望遠鏡の望遠鏡たるゆえんがあると信じていたからさ。倍率一倍の望遠鏡はたしか、ガリレイがはじめて倍率九倍の望遠鏡をつくってから、七十年もしてようやくファインダーとして、つくられたんじゃなかったのかな。きみたちがリアリズムに到達するまでに、おどろくべき時間を要したようにね。 「してみると、きみはリアリズムは謂わば倍率一倍で、 [#1字下げ]外部の実現が内部の現実と接続[#「外部の実現が内部の現実と接続」はゴシック体]するとき、これをリアリズムという。  と考えようとしてるんだな。それにしても、倍率一倍の望遠鏡がつくられるまで、どうして七十年もかかったのだろう」  それは望遠鏡の倍率がいよいよ高くなり、所要の天体の探索が不可能になるほど、実現と現実との断絶[#「断絶」に傍点]が激しくなるのを待たなければならなかったからさ。そのときに至って、はじめてファインダーとして低倍率の望遠鏡を、大望遠鏡と平行にとりつけることが考えられたのだ。 「どうして平行に……」  さっきも言ったように、一点より放射される光線が平行とみなされるとき、その一点を無限遠にあるといってよい。とすれば、ファインダーとしての低倍率の望遠鏡と、大望遠鏡を平行にとりつけておけば、おなじ無限遠にある一点をとらえることになるだろう。しかし、そうした低倍率の望遠鏡も、まだまだきみが覗いているような、倍率一倍の望遠鏡になるには至らなかった。じつは、それは照準眼鏡として戦闘機の機関砲に、平行に装備されるものなんだ。 「戦闘機の機関砲に?」  うん、その照準眼鏡が戦闘機の機関砲に、平行に装備される意味についてはもう言うまでもないだろう。しかも、その倍率一倍もそう称するだけで、実は倍率一・二五倍なのだ。正確に倍率一倍だと、ものがなんだか小さく感じられて、接続[#「接続」に傍点]しないような気がするんだ。 「きみは外部は境界がそれに属する領域だと言った。それが実現されるからかな」  境界は内部を外部に、外部を内部に変換する恐るべき意味を持っているが、たんなる概念だよ。ただ、枠を通して見ると、ものはなんだか小さく感じられ、接続[#「接続」に傍点]しないような気がする。それを克服しようというまでのことだ。きみたちのリアリズムだって、多少の誇張はいるだろう。 「そうか。 [#1字下げ]われわれのリアリズムは倍率一倍と称する倍率一・二五倍である。[#「われわれのリアリズムは倍率一倍と称する倍率一・二五倍である。」はゴシック体]  いや、納得が行くよ。われわれだっていささかの幻術もなくそうとすると、なにもできなくなる」  ところが、それができるんだ。 [#挿絵(img/fig10.jpg、横380×縦260)] [#ここからゴシック体] [#1字下げ]凸レンズの焦点に焦点鏡を置き、下から豆電球で照射する。すると焦点鏡の十字線は平行線になって出ていく。これを四十五度に倒した平行平面ガラスで受ければ、無限遠点に十字線が浮き上がる。これを光像式照準器という。 [#ここでゴシック体終わり]  ここでは内部と外部が反転して、内部が外部に実現されている。そこにはものを小さく感じさせる枠など必要としないから、さまたげられることなく実現と現実が接続[#「接続」に傍点]する。きみの横にあるのがそれだ。もう倍率一・二五倍と称する倍率一倍なのではない。正真正銘の倍率一倍だ。豆電球にスイッチを入れた。むろん、片眼をつむることはない。そのままで見てみたまえ。 「きれいだね。十字線がキラキラと浮かんで、彼方の教会の尖塔の十字架にかかっている」  そうだろう。それで射撃の精度は飛躍的に上がったのだ。 「なんだか、空恐ろしいような気がして来るね」  幻術がまったくないのは、かえって恐ろしいことだよ。ぼくはそのとき戦闘機に乗っていて、もうそろそろ引き返そうと思いながら、哨戒圏を飛行していた。あたりはまだ暗くなってしまったというのではないが、照準器の十字線がキラキラとみょうに明るく、行く手の空間に浮かんでいるように見える。ふと気がつくと、これもおそらく哨戒していたのだろうね、十字線のあたりに敵の機影が見え、見えたと思うとそれが零点の上で、みるみる大きくなって来るんだ。まるで、零点に向かって迫って来るようにね。恐ろしい賭だ。恐れのためか、恐れまいとするためか、それはわからない。そうだ、これはぼくの機体も敵の十字線の上の、零点にあるということだろう。そう思うと、ぼくには零点にあるその機体がぼくの機体のように思え、そこでぼくが照準器を見つめながら、じっとりと汗ばむ手で操縦桿を握りしめ、引き金のボタンを押そうとしているような気がしはじめた。突然、十字線の零点から曳光弾が発射され、それが光跡を曳きながら、ぼくの眉間に近づいて来るように思われた。が、零点にある機影は翼を傾け、気づいたときはもう振り返らねばならぬような遥か後ろにあった。それはもうぼくの機体でもなければ、そこにいるのはぼくでもない。火を噴きながら暗い現実へと墜落して行く敵の機体であり、敵だったのだ。おお、まさに幽明境がそれに属する領域としての死から、そのままで幽明境がそれに属せざる領域としての生に蘇ったのだ。 「とすると、きみはその瞬間、そのようにして死者の眼を持ったと言うのかね」  それはわからない。ぼくはぼくに死をもたらそうとする敵を、まるでぼく自身のように思い、ぼく自身をぼくに死をもたらそうとするものの実現のように思ったのだが、ほんとにそのときそう思ったのかどうかわからない。ぼくたちはあとから想いだして、よくそんなときそんな気がしたように考えるが、実際はそれを想いだすことにおいて、そんな気がしたのだというようなことがよくあるから。教会が鐘でも鳴らしてるのかね。いまのいままで鐘が鳴ってるとも思わなかったが、気づいてみると、たしかに鳴ってるね。このところ、禁止されているはずだが。 「そうだ。ぼくも気づかなかったが、たしかに鳴ってる」  不思議だな。人家にもすっかり明かりがついて来た。かえって部屋が暗くなってしまったようだ。 [#ここから1字下げ]  闇が覆って来た  生命ある樹々は姿を隠し  死んだ木が白く浮き上がって  生命の形を現す [#ここで字下げ終わり]  いや、こんな話をするつもりじゃなかったんだが。待ってくれたまえ。ぼくが先にはいって部屋に明かりをつけるから。 [#改ページ]   宇宙の樹  乾杯! まず一杯キューッとやってくれたまえ。 「じゃア、遠慮なく。それにしても、立派なホールだね」  みな一応は教養のある連中だ。それが家族から遠く離れて、こんな山の中にいるんだから。施設をよくして、気分だけでも都会を味わってもらおうというのさ。途中、中継所から電話を入れたら、きみがもう来ているというんで、ずいぶんジープを飛ばさせたんだが、だいぶ待たせたろう。 「河原を見せて貰ったりしていたんだ。みな親切な人たちでね」  人懐かしいんだよ、彼等は。 「それにしても有難かったよ。おや、せせらぎ[#「せせらぎ」に傍点]が聞こえるようだな」  昼間はこんな山の中でも、この世の音で満たされている。それがこの世の音がなくなって夜になると、せせらぎ[#「せせらぎ」に傍点]が聞こえる。樹々がざわめく。沢鳴りで眠れないようなときもあるんだよ。 「そうかね。さっき見せてもらったとき、河原はただ一面のグリ石だろう。山というより、海のない海岸に出たようだったが、あれでどこかに流れがあったのかね」  あるんだよ、いつ洪水になるかもしれない流れがね。あの一面のグリ石は、じつはそうした洪水に押し流され、揉まれ揉まれてグリ石になったんだからね。ところが、それでもグリ石にならず、ひとり流れの中に居坐っている巨大なやつ[#「やつ」に傍点]がいる。 「そりゃ、そうだろう」  いや、居坐っているばかりでない。そういう巨大なやつ[#「やつ」に傍点]は、洪水のあるたびに溯って来る。 「溯って来る?」  うん。そういう巨大なやつ[#「やつ」に傍点]には、いかな洪水も上流側の土砂を抉って去るしかない。その抉れに向かって、やつ[#「やつ」に傍点]はゴロンところがる。こうして洪水のあるたびに溯って来るんだ。愉快だろう。なんだか、哄笑が聞こえて来るような気はしなかったかね。 「哄笑が?」  うん。それで、ぼくらはあのグリ石の河原を、天の河原なんて言ってるんだ。 「天空は山と山とに狭められているが、土地そのものは天空に近いんだろうからね」  このあたりの住民は、山の上を指さして、山の上とは言わず、空のほうと言う。 「それで、神々があそこで酒宴を張るという、伝説ができたんだな」  いや、ここの連中がそんな気どりで、酒宴を張ったりするというだけだよ。 「そんな気どりで?」  謂わば、洪水は天の哄笑だろう。グリ石はその証《あかし》だ。ところが、グリ石も哄笑しやがるんだ。グリ石はダムの絶好の骨材になる。ぼくらは居坐っているあの巨大なやつ[#「やつ」に傍点]のように、いつかは天の哄笑を捕らえ、天の哄笑を哄笑してやろうと集まって来た連中だからな。 「その暁には、居坐っている巨大なやつ[#「やつ」に傍点]が、晴れて天下を取るというわけだ」  冗談じゃない。きみ、大根の話を覚えているかい。大根は一枚の硝子板を撥ねのけたとき、天を哄笑するがごとく歓喜したじゃないか。あれだよ。巨大なやつ[#「やつ」に傍点]もすでに粉砕されて、骨材にされてしまっているさ。ぼくらだっていずれはそんなもんだ。 「なんだか、荒涼として来るな。実は、きみを光学工場に訪ねたことを想いだして、あの丘の上に行ったんだよ」  見る限り、瓦礫と化していただろう。あのとき、鐘が鳴ったね。 「あれはいったいどうしたんだろう。しかし、ポツンとひとつ、尖塔に十字架のついた教会が残っていなかったら、とても彼方の丘から窪地にかけて人家が埋まり、あの光学工場があったとは信じられないくらいだったよ」  そりゃ、尖塔に十字架のついた教会によって、近傍[#「近傍」に傍点]がつくられていたからだよ。 「近傍[#「近傍」に傍点]?」  なあに、あたり近辺ということだよ。あたり近辺だから、どんなに小さくても、近傍[#「近傍」に傍点]と考えることができる。また、どんなに大きくても、近傍[#「近傍」に傍点]と考えることができる。きみは山を越え、川を渡って来る間、どこからがダムをつくる連中の会社だとわかったかね。ここに着いて、やっとそんな気がして来たんだろう。すなわち、きみはここに至って、はじめて近傍[#「近傍」に傍点]という認識を得たんだ。しかし、すでに近傍[#「近傍」に傍点]のなんたるやには近づいて来たはずだよ。 「そうかな」  そうだよ。 [#ここからゴシック体] [#1字下げ]任意の一点を中心とし、任意の半径を以て円周を描く。そうすると、円周を境界として、全体概念は二つの領域に分かたれる。境界はこの二つの領域のいずれかに属さねばならぬ。このとき、境界がそれに属せざるところの領域を内部といい、境界がそれに属するところの領域を外部という。 [#ここでゴシック体終わり]  なんでもない、この内部なるものが近傍[#「近傍」に傍点]なんだ。ただし、ここでは全体概念と呼ばず、いつぞやきみが言ったように世界と呼ぼう。また、中心と呼ばず原点と呼び、外部と呼ばず域外と呼ぼう。理由はやがて分かってもらえると思う。 [#1字下げ]任意の一点を原点とし、任意の半径を以て円周を描く。そうすると、円周を境界として、世界は二つの領域に分かたれる。境界はこの二つの領域のいずれかに属さねばならぬ。このとき、境界がそれに属せざるところの領域を近傍[#「任意の一点を原点とし、任意の半径を以て円周を描く。そうすると、円周を境界として、世界は二つの領域に分かたれる。境界はこの二つの領域のいずれかに属さねばならぬ。このとき、境界がそれに属せざるところの領域を近傍」はゴシック体]といい、境界がそれに属するところの領域を域外という。  いや、こんなことも言わなかっただろうか。 [#1字下げ]内部は境界がそれに属せざる領域なるが故に密蔽されているという。且つ、内部は境界がそれに属せざる領域なるが故に開かれているという。つまりは、密蔽され且つ開かれてさえいれば内部といえるのだから、内部にあっては、任意の点を中心とすることができる。[#「内部は境界がそれに属せざる領域なるが故に密蔽されているという。且つ、内部は境界がそれに属せざる領域なるが故に開かれているという。つまりは、密蔽され且つ開かれてさえいれば内部といえるのだから、内部にあっては、任意の点を中心とすることができる。」はゴシック体]  これを以て近傍[#「近傍」に傍点]の定義を、更に拡大してみよう。厳密に数学を語るひとは賛成しないかもしれない。 [#1字下げ]近傍[#「近傍」はゴシック体]は境界がそれに属せざる領域なるが故に密蔽されているという。且つ、近傍[#「近傍」に傍点]は境界がそれに属せざる領域なるが故に開かれているという。つまりは、密蔽され且つ開かれてさえいれば近傍[#「近傍」に傍点]といえるのだから、近傍[#「近傍」に傍点]にあっては、任意の点を原点とすることができる。境界も円である必要もないばかりか、場合によっては域外の任意の点も原点となる。これも近傍[#「近傍」に傍点]をなし結合するから。 「域外における任意の点も?」  まア、宇宙の樹とでも言うかな。どこかにあるに違いないが、どこにあるともわからない、そういうものによる没個性的連帯は、きみらのとうに否定したところだろうがね。ぼくらは力んでおれは洪水を溯ると言っても、所詮はグリ石となんら変わらぬ連中だからな。 「きみがグリ石? いつだったか、きみはぼくに『革の口輪をはめられた犬の話』をしてくれたことがあったね」  焼け跡の闇市の屋台で、焼酎をやりながらかい。そんなこともあったな。 「しかし、あのときは嬉しくもあり、驚きもしたよ。あの丘に立ったときは、もうきみに会えないような気がしていたのに、どうしてあんなところで会ったんだろう」  みなが堕ちて、おなじようなところに溜まったんだ。 「想いだしたよ。 [#1字下げ]≪夜だったからあんなところで飲めたものの、朝は朝霧の中からヴァキューム・カーが何十台となくやって来て、あの裏の汚水の溜まりのような河に舫《もや》っている、オワイ舟に空けるんだろう。やがて、まだそこらに残っている闇市の食べもののにおい[#「におい」に傍点]に混じって、生温かく屎尿がにおいはじめる。そのにおい[#「におい」に傍点]に憧れて来た野良犬どもが群れをなして横行し、ヴァキューム・カーの運転手たちも、車を止めて大声で罵らねばならぬほどだった。≫  そうじゃなかったかね」  そうだったよ。 「それそれ。あの屋台で焼酎に酔ったのが、ペッと唾をはいて、  ——近ごろ、動物愛護団体ってのができたってよ。  なんて言ったのがいたじゃないか。すると、だれかが台を叩いて怒鳴った。  ——なに、動物愛護団体? おれたちだって野良犬となんの変わりはねえじゃないか。それなのに、おれたちをさしおいて動物愛護団体? やつらには犬殺しの棍棒や針金だって、あきたらねえと思っているのに。  ——いやア、犬殺しの棍棒や針金も、間に合わなくなったってまでのことよ。動物愛護団体の名による病院の愛のメスで去勢して、闇成金の飼い犬におっつけようってわけ[#「わけ」に傍点]さ。  ——愛のメスだと。そんなことで、闇成金の飼い犬になれるってなら、おれもいっそその愛のメスとやらで、去勢してもれえてえよ。  と、こうなんだろう」  あのころはだれもが野良犬で、野良犬から脱けだそうともしなかった。あれを絶望というんだろう。しかし、みょうな楽しみがあったな。 「しかし、きみは違っていた」  そんなことはないよ。 「じゃア、どうしてあんな話をしたんだい。 [#1字下げ]≪いつからとなく、そんな野良犬の間に、革の口輪をはめられた犬が現れて来た。そぎ立った耳と長い脚を持ち、狼に似た姿をしているが、全身疥癬に犯されて毛は抜け落ち、あちこち爛れた肉をむき出しにして、とぼとぼと歩いている。かつては、野良犬どもが及びもつかぬ容姿をしていただろうことが、かえって野良犬ばかりか、野良犬にも劣る人間どもを嘲笑させた。≫  きみはあのころ、『ヨブ記』を想いだしていたんじゃなかったかね。神に敵する者、神の前より出でて、悪腫もてヨブを打つ。すなわち、ヨブは陶器のかけらをもてからだ[#「からだ」に傍点]を掻きむしり、灰の上に坐れり。ヨブが訪れて来た三人の友の言葉を聞き入れなかったように。 [#1字下げ]≪革の口輪をはめられた犬には、もはやおのれに対する嘲笑など念頭にもなかった。ひとたびなにかを思いだすと、それがすべて革の口輪につながって来、そのために痒いところが噛めぬということが、ことさらに痒さを想いださせる。といって、この汚い犬も痒いところが、まったく掻けぬわけ[#「わけ」に傍点]ではなかった。からだ[#「からだ」に傍点]を曲げれば後ろ脚で背筋をすら掻けるのだが、さアその後ろ脚の痒さをどうすることもできない。つまり、どこかがどうしようもないということが、どこもがどうしようもないように思わせるのだ。いっそ、われとわが後ろ脚を食いちぎってしまいたい。そう考えて、ときには革の口輪のあることも忘れて輪を描いて走り、ときには革の口輪のあることに気づいて激しく首を振るのだが、革の口輪は口から離れぬばかりか、進んでも退いてもひっついて来て、いたずらにこの汚い犬を絶望させた。これでも、神があるだろうか! この汚い犬は自らの怒りに疲れ果て、もがいても、あばれても、取ることのできぬ革の口輪をはめられたわが身を思い、神から見放されて声も届かぬところへ、追いやられてしまったように考えていた。≫  まさに、われとわが肉をわが歯に噛ませ、わがいのち[#「いのち」に傍点]をわが掌におかんとす、だ」  あれはきみ、そんな犬がほんとにいたまでのことだよ。 「そうかな。あれこそ寓話によってきみ自身を実現しようとしたんじゃないのかね。しかも、革の口輪をはめられた犬を絶望させた革の口輪こそ、じつはたんなる野良犬と区別させ、いかに神に敵する者から悪腫もて打たれるところになったとしても、依然として飼われた犬として、犬殺しの棍棒や針金ばかりか、動物愛護団体の名による病院の愛のメスをも、逃れさせたというんだろう。まさにきみはそういう革の口輪をはめられた犬に革の口輪をはめた主は、いったい、だれだと問おうとしていたのじゃなかったのかね。神に敵する者に悪腫もて打たせながら、われとわが肉をわが歯に噛ませぬのが、神だといおうとしたんじゃなかったかね。 [#1字下げ]≪ところがある朝、革の口輪をはめられていたはず[#「はず」に傍点]の犬は、ふと口に革の口輪がないことに気がついた。いや、夢の中でも革の口輪は口にはめられていて離れなかったから、目が覚めても革の口輪は当然口にはめられていると思い込んで、すぐ鼻先の地面に落ちているのが、あれほど自分を苦しめた革の口輪だとも気づかずにいた。しかし、それがまぎれもなく革の口輪だと知ったとき、革の口輪から解き放たれた犬はあざ笑わずにいられなかった。なんて薄汚い滑稽な革切れだろう。これがいままで落ちずにいたのが、おかしいぐらいだ。もうこの革切れがどんなに望んだとしても、おれの口輪になれまいと考えると、革の口輪から解き放たれた犬は、も一度この革切れを口にはめてやりたくなるほどだったが、思えばこんなものにかまっていることもないのだ。≫  やるなあ」  よく覚えているね。 「覚えているさ。ぼくはあの話を想いだすと、不思議に勇気づけられたんだ。 [#1字下げ]≪革の口輪から解き放たれた犬はもはや野良犬以外のなにものでもなくなったとも悟らず、身をおおう疥癬の堪えがたい痒さも忘れて起き上がった。背をのし、ノドを伸ばして遠吠えすると、歓喜に思わず身震いし、足をかかげて放尿し、朝霧の中を走りはじめた。朝霧は左右に流れ去り、僅かな風にも吹雪の吹き立つ、酷寒の雪の曠野のように心地よい。じじつ、そうして走るうちに、かつて自分がそんな雪の曠野にいたことがあるような気がしはじめた。いや、かつてはほんとうにそんな雪の曠野にいたのに、いつとなく忘れ去っていたような気すらしはじめた。その雪の曠野にはトナカイの群れの散らしていったフンが、まだ埋もれもせず、黒々と雪の中にころがっているはず[#「はず」に傍点]だった。それは移動して行ったトナカイの群れが、まだそう遠く離れていないことを教えるもので、はやくもその群れのトナカイを倒してむさぼり食うときの、ハラワタの味わいを想いださせずにおかなかった。≫  そういえば、きみはまだ若いころ、雪の原野にトナカイを放牧する北方民族たちと生活したことがあったね。きみはそれが忘れられないんだと思ったよ」  そう。いまこうしていても想いだすくらいだからね。 「そうだろう。 [#1字下げ]≪突然、革の口輪から解き放たれた犬は、ハッとして飛びのいた。朝霧の中からぬうッとヴァキューム・カーが現れて来たのだ。しかし、激しいブレーキの音がしてヴァキューム・カーは止まり、運転手が薄汚い身を乗りだして、大声で口ぎたなく罵ったと思うとまた動きはじめ、気づいたときはなにやら胸の悪くなるような生温かいにおい[#「におい」に傍点]を残して、朝霧の中へと消えようとしていた。革の口輪から解き放たれた犬には、運転手の口ぎたない罵りよりも、罵りにおびえたように飛びのいた自分が許せなかった。もはや痒みも感じないそのために、依然として身を疥癬におおわれているのも忘れ、そぎ立った耳と長い脚を持ち、狼に似た姿をした誇り高い自分に戻った気でいたからかもしれない。思わずあとを追って猛然と吠えかかったが、朝霧の中からまたもヴァキューム・カーが現れて引き倒し、革の口輪から解き放たれた犬から、手もなく後ろ脚のひとつをもぎ取ってしまった。悲鳴を上げてやっと起き上がると、もぎ取られた後ろ脚は道路に散ったいささかの血シブキと血糊の中にころがっている。革の口輪から解き放たれた犬は、もも[#「もも」に傍点]から血をしたたらせながらも、痛みを忘れて咄嗟にこれをくわえ上げ、逃れるべきところを求めるように目を配った。なにかもう、その後ろ脚が狙われていそうな気がしたのだ。果たして、 まさに逃れようとする朝霧の彼方には、 一匹の野良犬がかすかな唸り声を上げている。 あわてて他方をうかがったが、 そこにもまた一本の骨つき肉に変わった、 みじめな後ろ脚を狙う野良犬がいた。 ついきのうまでは、みずから食いちぎりたいとすら思ったその後ろ脚を、狙う野良犬どもから奪われまいとして必死になりながら、この汚い犬はもも[#「もも」に傍点]から血をしたたらせて、飛び飛びに走りはじめた。あるいは、あの野良犬どもは口にくわえたこの後ろ脚よりも、もも[#「もも」に傍点]から血をしたたらして逃れようとするこの自分を狙っているのかもしれない。朝霧の中にそうした野良犬が見る見る数を増して来るのを感じながら、革の口輪から解き放たれた犬は、ついに心に叫ばずにいられなかった。これでも神があるだろうか!≫  こうしてきみは革の口輪から解き放たれた犬に、二度、これでも神があるだろうかと叫ばせたのだ。一度は食いちぎろうにも食いちぎることもできぬ後ろ脚のために。また、一度はおなじその後ろ脚をもぎ取られてしまったために。しかし、ヨブにおけるようには神は現れなかった。きみはこれで神はいないと言おうとしていたのかね」  いや、神もまた矛盾として実存する。境界が矛盾を孕むということは、原点が矛盾を孕むということだ。われわれはわれわれの近傍[#「近傍」に傍点]の原点に、矛盾として実存する。矛盾として実存する私[#「私」に傍点]が神に対するという以上、神もまた矛盾として、実存するものでなければならない。ここに絶望がある。 「しかし、革の口輪から解き放たれた犬は、なぜ自分のもぎ取られた後ろ脚をくわえ上げ、それを狙う野良犬どもから逃れようとしたのだろう」  それでもまだなんとかして、私[#「私」に傍点]になりたいという絶望だよ。しかし、人は決して私[#「私」に傍点]があくまで私[#「私」に傍点]であろうとすれば、必ずおちいる絶望など望んでいない。なんでまた、あんなことを喋ったのだろう。きっとぼくも絶望していたんだな。人はみな壮麗な蛇が、壮麗なるに似た蛇になろうとする願望があるように、グリ石になろうとする願望がある。ぼくもこれでようやくグリ石になれたのだ。ゆめ、居坐ってグリ石の間を溯って来るような、巨大なやつ[#「やつ」に傍点]になりたいなどとは思わない。 「そこで、グリ石の哄笑というのかね」  そうだよ。ぼくがグリ石になりたかったのは、私[#「私」に傍点]が矛盾として実存することから逃れたかったからだ。ところが、やっと逃れてなることのできたグリ石の仕事は、いかにして大きな矛盾をつくるかということだった。いいかね、われわれはまずできる限り、広大な流域を探す。それは水を堰いて密蔽し、できる限り広大な近傍[#「近傍」に傍点]を得ようとするためだ。その堰いて密蔽するのも、また山間《やまあい》の迫った頑強な岩盤を持つところが望ましい。ここで天空が山と山とに狭められているのはそのせいだよ。 「じゃ、このあたりにダムができるんだな」  このあたりにもできる。 「とすると、あの山間の向こうには、堰いて密蔽されることによって、広大な近傍[#「近傍」に傍点]となる流域があるんだな」  あるある。しかも、ぼくは言ったろう。 [#1字下げ]近傍[#「近傍」はゴシック体]は境界がそれに属せざる領域なるが故に密蔽されているという。且つ、近傍[#「近傍」に傍点]は境界がそれに属せざる領域なるが故に開かれているという。……………………………………………………………………………………………………………………  すくなくとも、ここに論理的矛盾があるとは思わないかね。 [#1字下げ]矛盾はつねに無矛盾であろうとする方向を持つ。[#「矛盾はつねに無矛盾であろうとする方向を持つ。」はゴシック体]  そこで、われわれはこの矛盾を強調して、無矛盾であろうとする方向を強調させる。おなじ理念によって且つは密蔽され、且つは開かれるとは明らかに矛盾だが、これを強調すれば必ず無矛盾になろうとして、密蔽されることと開かれていることとは、両分された二つの概念になる。しかも、密蔽されることが強調されれば、開かれていることも強調される。こうした矛盾の強調には落差が必要だ。これがこの土地そのものも、天空に近いというゆえん[#「ゆえん」に傍点]だよ。 「きみはやっぱりただの野良犬じゃなかった。もともとそぎ立った耳をした、脚の長い狼に似た姿の犬だったのだ。きみがこうした立派なホールで飲みながら、むかしと変わらぬ話をしているのを聞いていると、きみもとうとうきみの来るべきところに来たって気がするよ」  しかし、ここにこうしていることが、野良犬だということなんだ。見てくれはいいが、ここは謂わば国家的につくられた、野良犬たちのための動物愛護団体の事業のようなもんだからね。いっぱしの男が生休《せいきゆう》を待ちかねるようにして、この山の中から帰省して行くのを見ると、いっそおれもその愛のメスとやらで、去勢してもらいたいと言ってるように思えるよ。それに、ここの物語はどの人物を登場させたにしても、違った世界がつくられるというわけ[#「わけ」に傍点]ではない。すなわち、ここではどこかにあるには違いないが、どこにあるともわからない、謂わば宇宙の樹への連帯感によっているだけで、幸いにも私が私[#「私」に傍点]になるなどという必要がまったくないということさ。 「そんな願望がきみにあるというだけで、きみがそんな人間でないことを示しているよ。それにしても、光学工場にいたきみが、よくこんな山奥で、まったく違ったダムをつくるなどといった仕事をしていられるもんだな」  どうしてだね。天に挑み天の哄笑に答えて、哄笑しようとするものであることでは、なんの違いもないだろう。望遠鏡は内部に外部を実現する。同じように、山また山の間を流れる川を堰きとめてつくられた広大な流域を、発電所において他の山また山の間を流れる川を堰きとめてつくられた他の広大な流域に変換する。あるいは、おなじ川をことさらに分断し、発電所においてひとつの広大な流域から、他の広大な流域へと変換する。したがって、 [#ここからゴシック体] [#1字下げ]ダムは、発電所において矛盾が矛盾でなくなろうとする方向のもたらす、もっとも大きな電力を得るために、いかなる洪水をも堰きとめることによって、いかなる洪水にもまさる洪水をつくりださねばならぬという、もっとも大きな矛盾を孕む境界としてあるものでなければならない。 [#ここでゴシック体終わり] 「…………」  だから、この矛盾の強調、落差を大にするために、流域変更といって、山を圧力トンネルで貫き、遥かに標高の低い他の川に落とそうというんだ。ただし、これじゃ、生から死への変換、ただそれだけだからね。 「生から死への変換? つまり死ぬことかね」 [#挿絵(img/fig11.jpg、横361×縦230)]  ところが、いまはピーク発電といって、一定量の電力は火力発電でまかない、それでまかなえなくなったとき、ダムの水を放流しておぎなうんだ。そして、火力発電で電力があまると、放流した水をポンプ・アップして、放流したダムの水をまた満たしては落とす。つまり、死から生へ、生から死へと輪廻させるんだ。輪廻についてはきみとまた語ろう。暇なんだろう、きっと。よくそんなことを考えるんだ。そうしたダムがつくられるにはこれほどいいところはない。ダムは近代のピラミッドといわれるが、あの果てしない砂漠の中に悠遠の過去を示すごとくピラミッドが立ち並んでいるように、やがてこの広大な山々の中にダムが幾つも幾つもつくられる日が来るだろう。 「来るだろうって、まだつくられてはいないのかい。きみがここにいると風の便りに聞いてからでも、ずいぶんたつように思うがな」  いや、ダムは悠遠の未来を示すように、まだまだそこへ達しようとする道路をつくっているところなのだ。こういう道路をつくるためには、その道路をつくるための道路がつくられねばならない。そんな道路は行きどまりになって立ち消え、やがて忘れられて廃道ですらなくなってしまうかもしれない。 「…………」  そうだ、ジープの用意をしてもらおう。ぼくらの仕事はね、まず測量からはじまる。測量とは大小無数の三角形を地上に想定して、真の面積に迫ろうとする技術だよ。あらゆる三角形は、頂点より底辺に垂線を下ろすことによって、直角三角形に分割することができる。この直角三角形について面白いことが言えるんだ。 [#ここからゴシック体] [#1字下げ]直角三角形ABCの斜辺ACを分割して、分割されたACの部分の上に、二辺がAB、BCと平行な小三角形をつくる。むろん、このようにしてつくられた小三角形の二辺、AB、BCに平行なものの総和はAB+BCに等しく、ACはAB+BCより小さい。しかし、ACが更に無数に分割され、ついに無限に至った瞬間、小三角形の二辺、AB、BCに平行なるものの総和はACに吸収される。したがって、AB、BCはACに吸収され、ACはAB+BCに等しくなる。 [#ここでゴシック体終わり] [#挿絵(img/fig12.jpg、横364×縦255)]  ただし、それは瞬間であって、瞬間を過ぎれば依然として、ACはAB+BCより小になることは言うまでもない。しかし、この変容の示現する瞬間の幻術の生成する時間が、驚くべき吸収性を持ち、おそらくは想像を絶する、高い濃度を持つであろうことを暗示するように思われる。したがって今まで述べてきた矛盾論のごときは、時間にとっては、まったく問題ではない。これはむろんパラドックスだ。しかし、近代数学はこのパラドックスの克服に出発している。しかも、いかに完璧な公理群を以てした論理空間も、このパラドックスを免かれ得ないということが、証明されるに至ったんだよ。こうして数論の根幹が揺るがされ、証明系の必ずしも憑依すべからざることが示された。さア、いよいよジープが来たようだ。不思議な木があるんだ。枯れてしまって、白骨のように白くなっている。それがだんだん暗くなると、みょうに輝いたように見えて来るんだ。 「きみはぼくに詩を聞かせてくれたじゃないか。そう、『死者の眼』だ。 [#ここから1字下げ]  闇が覆って来た  生命ある樹々は姿を隠し  死んだ木が白く浮き上がって  生命の形を現す [#ここで字下げ終わり]  むろん、きみはそんな木を見て、『死者の眼』をつくったんじゃない。きみの詩から実現して来たんだ。それこそ、きみの宇宙の樹だ」  ぼくもあの木を思うと、すべてが裏返って見えて来るんだ。道路をつくるための道路は行きどまりになって立ち消え、やがて忘れられて廃道ですらなくなるのではない。行きどまりになって立ち消え、やがて忘れられて廃道ですらなくなることによって、本然の道路に蘇ったのだ。もともと本然の道路があって、それに吸収されたのだ。もともと本然の時間があって、ぼくの死、きみの死も吸収されるんだ。その濃度において比較を絶するが、道路はまったく時間に似ている。いずれもそれから抽出して一次元空間と見做すことができる。 「時間が? 時間も空間なのかい」  そうだよ。時間もまた空間と見做すことができる。 [#1字下げ]任意の一点を原点として、境界がそれに属せざるところの近傍[#「任意の一点を原点として、境界がそれに属せざるところの近傍」はゴシック体]と、境界がそれに属するところの域外に分かたれる構造をもつものを空間という。  とすれば、時間もまた近傍[#「近傍」に傍点]と域外に分かたれる、構造を持っていないだろうか。しかも、現瞬間を原点としてなすところの近傍[#「近傍」に傍点]には、いくらそれを小さくしても、その中に過去と未来が含まれる。過去と未来はあきらかに対立矛盾するものだ。矛盾はつねに無矛盾であろうとする方向を持つ。かくて道がつくられる。その行く先が未来であるのではなく、それを未来と呼んでいるのだ。 [#1字下げ]道は二点を結ぶ最短距離としての直線でなければならぬ。また、道はもっとも高低のない等高線に沿った曲線でなければならぬ。したがって、この矛盾を原点とする近傍[#「道は二点を結ぶ最短距離としての直線でなければならぬ。また、道はもっとも高低のない等高線に沿った曲線でなければならぬ。したがって、この矛盾を原点とする近傍」はゴシック体]としての一次元空間と見做されるものでなければならぬ。  時間もおそらくこのように設計されようとしているだろう。それが矛盾が無矛盾になろうとするもっとも自然な道だから。道が変われば世界が変わる。世界を変えるためには、道を変えねばならぬ。すなわち、道と世界とは関数関係にあるばかりでなく、道を以て世界を意味させることすらある。もしそれ、時間を以て世界を意味することができるとすれば、世界を変えることによって、時間もまた変えることができるか。興味ある問題だが、それはできない。そうだ。道路と時間には、ただひとつ違ったところがある。 「違ったところが?」  うん。われわれはつねに、われを原点とした近傍[#「近傍」に傍点]にいる。近傍[#「近傍」に傍点]は境界がそれに属せざる領域だ。いかなる道路も、その境界に達することはできない。しかし、…… 「しかし?」  しかし、境界に達することのできる道路が一つある。それはわれわれを幽明境にも導く、時間という道路だ。  暗くなって来たな。ヘッド・ライトの中に、大きな舗装道路が白く拡がっている。時速百キロ、いやそれ以上飛ばしているのに、飛ばしても飛ばしても、ただ白く拡がった道路だということが、そう思わすのかね。戻る[#「戻る」に傍点]ことも到達する[#「到達する」に傍点]こともできないというように、白く拡がった道路はシンとして延び、まるで止まってでもいるようだろう。それどころか、後退しているような気はしないかね。それなのに、白木の墓標が現れて来たと思うと消え、消えたと思うとまた現れる。え? どうしてこんなものが、立てられているかって。そこで人が死んだからさ。ぼくらは工費いくらにつき、なん人死ぬとあらかじめ見積もっているくらいだからね。こうして白木の墓標が現れては消え、消えては現れするのをみても、いかに莫大な工費が道路にかけられているかがわかるだろう。それにね、ぼくらの見積もりが当たらずといえども遠からずというように、時計時間のようだとはいえないまでも、白木の墓標はほとんど等間隔に立てられているんだよ。そうそう、こんなこともあった。ぼくの目の前を走っていた自動車が、いつとなく見えなくなってしまった。いや、こんなジープではない。水没地域の人のひとりが、用地買収で手に入れたカネで、素晴らしい外車を街で買い、一家総員を乗せてぼくらを追い抜いて行ったんだ。後ろの窓からはこれ見よがしに、嬉しげに手を振るじいさんやばあさん[#「じいさんやばあさん」に傍点]の姿もあった。むろん、子供たちもはしゃいでいたようだったが、そのままスーッと消えてしまった。へんだなとは思ったが、そのまま忘れてしまってね。おそらく、そこにもあらたな白木の墓標が立てられたんだろうが、どれがそれなり深い谷底へと消えた素晴らしい外車のためのものか気づきようもない。こうした山の中では、山を切って道路がつくられる。その土砂はそのまま道路わきの深い谷へと捨てられるので、道路の幅が広ければ広いほど、深い谷へと捨てられる土砂の量は多くなり、ときに道路は実際の五倍も、六倍もの見せかけの広さを持っていて、そこを走る自動車を道路の外におびき出そうとするのだからね。時間だって、むろんそうだよ。幻術? そう、自然はこれと戦おうとすると、必ずそれなりの手を使う。いきおい、こちらもなんらかの手を打たねばならない。騙しすかしだよ。ああ、コンクリートの側壁につくられた祠が現れて来た。地蔵尊や不動尊が置いてあるんだ。もともと、廃道になってしまった道路につくられていたものさ。なにしろ、このあたりは沢登り、谷渡りをして来たものが、出て行ったまま戻らない。おそらく、着くべきところに着いたのだろうと思っていると、谷の鉄砲水に攫われて、白骨になっていたと言われていたところだからね。いずれはこうした地蔵尊や不動尊もやがては忘れられ、すべての潰え崩れるものがほほ笑んでみえるように、ほほ笑みながら亡び去って行くんだろうがね。それでも白木の墓標のために移されて来たと思うものもあるかもしれない。闇に枝がざわめく。そら、あっちでもこっちでも。猿どもが恐れて、闇に飛び込むんだな。おや、ヘッド・ライトの中に浮かんで来た。牝鹿だ。なんという素晴らしい牝鹿だろう。なに? いっちょ、やりますかだって。禁止されてるんだろう。だから、やりたいってのか。牝鹿はヘッド・ライトの中にはいると、ヘッド・ライトの外に出ることを知らない。牝鹿にはもうヘッド・ライトが時間であり、道であり、世界なんだ。必死になって駆けている。あ、牝鹿がヘッド・ライトからそれた。おや、また時間を道を世界を失いでもしたように、あわててヘッド・ライトの中に飛び込んで来た。牝鹿は恐怖の極にあるんだな。美しいまっ白な尻の毛を扇形に拡げた。あれは牡に追われて必死になって逃げながらも、なおそうすることによって誘惑するときの姿じゃないか。獰猛な欲求を満たそうとする猛犬のように、はやくも牙をむき、唾を飛ばそうとするお前はだれだ。お前はいつこんな気持ちになって来たのか。一体、なにになって行くのだ。なにになろうと、それが山を崩し、河を乾し上げようとする者の言葉か。殺《や》れ。いまだ。殺ったな。血は無惨に闇に飛び散っているに違いない。おお、戦慄すべき殺戮者の歓び! なに、ジープを止める? その必要はない。急げ。なんだか、いよいよ遠くなって行くようじゃないか、宇宙の樹は。 [#改ページ]   アルカディヤ  覚えているかね。ここがきみと屋台で焼酎をやった、焼け跡の闇市のあったあたりだよ。 「そうかね。そういえば、あの汚水の溜まりのような河も暗渠に変わり、立派な道路になって、自動車の洪水になってるようだし」  あの山奥でさえあんな道路ができる御時勢だからな。 「そんな山奥でダムをつくっていたきみから、このあたりのことを想いださせられるようじゃ、ぼくもどうかしているな」  ここにはきみに、近傍[#「近傍」に傍点]をなさしめてくれるようななにものもないんだ。尖塔に十字架のついた教会もない。むろん、宇宙の樹なんてものもない。 「宇宙の樹か。あれはなんだったんだろう。闇の彼方にあんなにもはっきりと現れて来た巨大樹、死の象徴だったのかね。あるいは、死の裏返しとしての生の象徴だったのかね。きみにはいろんなものを見せてもらったが、いまはみな遠い話になった。こうして、コーヒーを飲んでいてもビルばかりで、野良犬どころか、紐で曳かれた飼い犬の姿もない。ヴァキューム・カーや、野良犬どもの群れが懐かしくさえなるね。いやア、変わったもんだ」  しかし、それも表だけだよ。一歩ビルの裏にはいればきみも見て来たように、ゴミゴミした小さな印刷屋や製本屋ばかりさ。 「もとから、あのあたりはそうだったのかね」  そうだったらしい。みな古ぼけて、笑いながら老い朽ちてしまいそうな建物だからね。 「なまじい、戦災を免かれたからかな」  それもあるだろう。しかし、あれが新築されたとしても、依然として小さな印刷屋か製本屋で、それ以上のことはないよ。みな下請で喘いでいる。 「しかし、いつかは下請から抜け出して、ビルを建ててやろうというようなのはいないのかね」  まず、いないね。いてもあの界隈には建てないよ。 「じゃ、変わっているのは表だけで、本質的にはなにも変わっちゃいないというのかい」  そうなんだ。 「それなりに、うまくやってるからかな」  そうでもないよ。ただ、みんなこんなものだと思ってるんだ。定年なんかむろんない。いや、定年があるなんて思っているものもない。なんとなく勤めて、もう八十になっているものもいるんだ。つまり、他の世界を知らない、というより、もう知ろうともしないんだな。ぼくが光学の話をしても聞こうともしない。ダムの話をしても聞こうともしない。そんな話をするぼくを、うさん臭いと思ってるかもしれないよ。ただ、社長だけは聞いて喜んでるが、これも八十いくつで、うちもそのうちストライキぐらいは起こる、工場にしたいなんて笑ってる人だ。つまり、絶望にあまんじてるんだな。ただ、すべての潰え崩れるものがほほ笑んでいるように、ほほ笑んでるんだ。そうだ。きみもひとつ、『どん底』のようなもの書いてみたら。登場人物には事欠かないよ。 「そうか、『どん底』か。しかし、瓦礫と化したあの光学工場などは、素晴らしい蘇りをみせてるんだろう」  ところが、そうじゃないんだ。戦争と共に幻のように大きくなり、瓦礫に化したまま幻のように消え去ったよ。 「しかし、きみが近代のピラミッドと呼んでいた、ダムのほうはできただろう」  それはできた、三つも四つもね。ぼくはあのときあんなことを言ったが、ダムも不滅ではない。ようやく人の命ほどの命を保つと、土砂に埋没してしまうんだ。ぼくもぼくの受け持つダムができると、それなり去って日本海沿いの村々を転々としていたから、それからのことはわからないがね。 「そのきみがどうしてまたそんな小さな印刷屋なんかに来たんかね」  友人が手紙をくれたんだ。なんでもない小さな印刷屋だ。きみに勤めろとは言わない。また、ぼくが売り込んだのでもない。たまたま、こうした印刷屋にきみの話をしたら、ああ、そんな人に来てもらいたい。とても来てはもらえないでしょうな、とこうなんだ。もうそろそろ遊んではいられない、と思っていたところだろう。友人の気配りも、とても温かく感じられてね。 「それにしても、惜しいじゃないか。きみは光学工場にいた。ダムを造る仕事もしていた」  それがあんな小さな印刷屋にって言うんだろう。世界としては、あの小さな印刷屋もおなじ世界だよ。 [#ここからゴシック体] [#1字下げ]大小はただ外部から見て言えることであって、内部にはいれば大小はない。なぜなら、境界は外部に属し、外部から見た内部の大小は、この境界によって判断される。しかし、内部には境界が属しないから、いわば無限であり、無限には大小がない。 [#ここでゴシック体終わり] 「よくきみはそんなことが言っていられるね。光学工場でもそんなことを言っていた。ダムを造るときもそんなことを言っていた。いまもまだそんなことを言っている」  だって、きみも作品を創造するのは境界がそれに属しない、大小のない無限の内部を実現しようとしているんじゃないのかね。そうであればこそ、光学工場も書いて、内部といわれる世界になる。ダムの現場も書いて、内部といわれる世界になる。小さな印刷屋も書いて、内部といわれる世界になろうというものじゃないか。外部から見て大小を言う読者を内部といわれる世界に引き入れて、大小を言わせぬようにしなければならない。これを魅了するというのだ。 「その魅了するというのがまた難しい」  そりゃア、そうだ。きみがただ、ぼくがこのコップをとってコーヒーを飲んだと書くなら、それでいいのだし、なんのことはない。それはきみにとっての関係[#「関係」に傍点]はただこのぼくだけであり、コップはたんなる対応をなすもので、きみとなんらの関係[#「関係」に傍点]をなすものではない。しかし、ひとたびきみがコップそのものを書こうとするなら、話はまったく違って来る。 「そうだな。卒然として見ればなんでもないものも、これを書こうとして立ち向かえば全然違った相貌を呈して来る」  そうだろう。そうなればこの私[#「私」に傍点]と私以外といえば全世界であるように、このコップとコップ以外といえば全世界になるんだ。書こうとすると書かせまいとするコップのために、幻術が必要になって来るのさ。 「幻術?」  うん。ぼくはいつか映画で、白熊とセイウチの格闘を見たんだがね。白熊は後ろ脚で立ち上がる。セイウチも立ち上がろうとする。セイウチはもともと怯懦な動物だが、なにしろからだ[#「からだ」に傍点]は巨大で、ながい牙をもっている。白熊は両手を上げてジッと構えながら、突然徐々に顔をそむけてあらぬ方を見る。その瞬間、セイウチは襲いかかるのだが、白熊はわざと隙を見せてセイウチの襲いかかるのを待っていたのだ。そのとき、間髪を入れずあげていた片手で撲りつけて、セイウチを倒してしまう。 「じゃア、コップひとつ書くにも、隙ならぬ隙をみせて討ちとらねばならぬというんだな。なぜそんなことになるんだろう」  ぼくはこう思う。対決しようとすると、対象は必ず私[#「私」に傍点]と対等な生きものとして、関係[#「関係」に傍点]して来る。 [#1字下げ]関係[#「関係」はゴシック体]とはたんなる対応[#「対応」に傍点]ではない。おのおのそれみずからが矛盾を孕む実存として対応[#「対応」に傍点]するとき、はじめて関係[#「関係」に傍点]となる。  すでに述べたように、矛盾は矛盾でなくなろうとする方向を持つ。さきに日月星辰の運行にも、説き及ぼすことができるだろう、と言ったのもここから来ているんだ。 「関係[#「関係」に傍点]か」  きみはあの薄暗い部屋の蛍光灯の下で、工員たちが黙々と活字を拾っているのを見ただろう。あれは文選工というんだ。文選工にとって、ケースにつめられる活字はたんに座標上の一点に過ぎない。また、座標上の一点に過ぎないようになるのでなければ、その文選工はまだ熟練工ということはできない。文選工はこうして活字を文選箱に満たすと、植字工に渡す。植字工はこれをステッキに移し、符号化し、記号化して、組みゲラの上に構造し、はじめて意味を生ずるものになるのだ。すなわち、 [#1字下げ]いかなるものも、まずその意味を取り去らなければ対応[#「いかなるものも、まずその意味を取り去らなければ対応」はゴシック体]するものとすることができない。対応[#「対応」に傍点]するものとすることができなければ構造することができず、構造することができなければ、いかなるものもその意味を持つことができない。  しかし、その意味も工員たちには、なんの関係するものとはならない。殊に、熟練工ほどね。 「空しいもんだね」  空しい? そうだ。きみに北方民族の話をしたことはなかったね。 「きみは北方民族と言うだけで、それ以上は話してくれなかった」  そうか。あれはやっぱり、ぼくにとってアルカディヤだったんだな。まず、橇犬の話からはじめよう。橇犬は実におとなしく、忠実で、人なつっこいんだ。ところが、ぼくの前に現れて来たのは、そうじゃなかった。あれは仲間を呼ぶんだろうか。声を限りに八方に吠えながら、疾風のように駆けて来る。あたりが雪のせいか、その口がまた恐ろしく赤いんだ。もう鞭も手綱も眼中にない。あとでわかったんだが、数個のトナカイのフンが、橇犬たちの野性を呼び覚ましたんだ。おそらく、橇犬たちはトナカイを屠って、そのハラワタを貪ったことはないだろう。にもかかわらず、貪ったことがあるように、橇犬たちを狂わせてしまったのだ。ようやくにして、投げ縄が雪の舞う鈍色《にびいろ》の空に投げられ、嚮導犬が縛り上げられて、ことなきを得たが、なお昂奮を鎮めることはできなかった。ほっておけばいよいよ昂奮に駆られて、橇犬たちは果てもなくトナカイを追うという。これじゃ、トナカイを放牧する北方民族が、橇犬を駆使するアイヌ民族とタライカで戦ったというのも、たんなる夢物語じゃないと思ったよ。 「かつてはいずれも武勇の民族だったろうからね」  そうだろう。しかし、いまはいずれの民族も衰えて、互いに遠く離れて争うこともない。あるいは、互いに互いを忘れてしまったのかも知れない。聞いてはみたが、みな想いだしたような、想いださないような顔をしていた。いまや、あの果てもない雪原は、アルカディヤだよ。 「そういう意味か。きみがアルカディヤというのは」  といって、北方民族にもまったく犬がいないわけではない。ただ、仔犬でない小犬で、口輪こそはめられていないが、首輪から下げられた紐に横木が結ばれている。それが前脚の関節にあたって、走ろうにも走れないようになっているんだ。そりゃア、可愛がってはいるんだよ。可愛がりながらも、なにかが目覚めて来るのを、かすかに恐れている。なにがあんな小犬に、目覚めて来るというんだろう。いや、北方民族たちもそれを言うと、おかしがって笑うんだがね。ただ、たまたま地吹雪が襲って来る。乾燥地帯で雪はさして深くはないのだが、あちらの雪はぼくらが考えているような六方晶系の美しい花ではない。尻のえぐられた小さな弾丸のような形をし、これが風をはらんで吹いて来ると、おどろくような遠くから飛んで来て、あたりはいちめんの雪煙になる。しかし、天は晴れているので、透して来る日の光で、目前にはいたるところに小さな虹ができる。気を奪われるように美しいが、危ない。じじつ、探検家たちがよく遭難しているんだ。そんなとき、トナカイの肉を食い、トナカイの皮を着ている彼等には、トナカイを神としてひたすらに縋るほかになんの幻術をなそうようもない。すなわち、彼等は手綱を捨て、橇に身を伏せてトナカイの集団が走るにまかせてしまうのだ。雪煙の無数の小さな虹の中から、トナカイの尻がぼうっと現れる。現れたと思うとぼうっと消える。ぼくらはただそれに導かれている。来マスガ如シと書いて如来と読む。これだなという気すらしたよ。ん? そりゃア小犬だって乗せてやってるさ。ちゃんと縛ってね。あんな足枷をされたんじゃ、どこへ行こうもどうしようもなかろうじゃないか。トナカイたちにはこんな地吹雪の中でも、どの方向にシェルターがあるかが分かるんだ。やがて、雪のツンドラ地帯に、そんなものがあったとも思えぬようなトド松の林にたどりつく。彼等はそこでテントを張り、トド松の枝をしいて坐る。白樺の枝を燃して、串にさしたパンを焼きはじめる。まるで遠いむかしからそこに住み、またいつまでもそこに住もうとでもしているようにね。小犬もまたなにかをねだって、小犬らしく吠えたりしていたが、トナカイは気にする風もなく、首の鈴を鳴らしてキュッキュッと雪を踏んで歩いている。それにしてもどうしてあの印刷屋にいて、北方民族のことを想いだすのだろう。それもたんに想い出としてではない。あの界隈やあの界隈に働く連中には、そんなことを想いださせるようなものが、あるような気がするんだ。 「『どん底』かい。いや、きみの言葉を借りただけだがね」  かまわない、かまわない。『どん底』は『どん底』なんだから。しかし、ぼくたちはそこにいるから、あながちそうとは感じないが、もはやだれもが忘れ去っている遠い世界であることに、変わりがないのではあるまいか。といって、今日はこのようにあるので、やがては自分たちも忘れられて行くだろうと、考える者はひとりもない。おお、もし忘れられて行く幸福といったようなことが言えるなら、まさにあそこにも忘れられて行く幸福があるんだよ。 「きみが言うんだ。そうかもしれない。しかし、ここにも地吹雪はあるんだろう」  ある、ある。なんたって、ここも広漠たる荒野の中だからね。つい、こないだも手形が落とせなくて倒産した。社長は八十いくつの老人だろう。あきらめたのかね、絶望したのかね、ただほほ笑んでるんだ。それ、廃道から移されて来、やがては忘れられ潰え崩れようとする、あの地蔵尊や不動尊のようにね。工員たちは案ずることもなく散って行くだけで、なんの関係[#「関係」に傍点]するところもない。おお、これがアルカディヤか。トド松の林に憩うた北方民族たちも小犬とともに、トナカイの赴くままに、果てしない雪のツンドラ地帯へとただ消え去った。一体、どうしているだろうか。おそらく、昨日のごとく今日があり、今日のごとく明日がある。彼等のようにそうある以外求めようとしないのが、ひとの本然というものだろう。そんなことを思っていると、突然かすかな哄笑が聞こえた。そんな気がしただけかもしれないが、それがぼくに忘れかけていた、さまざまな過去を呼び起こしたのだ。 「…………」  友人からカネを借りてやろうという気になった。成算がなかったのではない。そうなったのは収入がないのではない。ただその収入を待ち切れないために、そうなったと見ていたんだ。そこで、呼び水を入れてやれば、この有為転変、諸行無常も円環してなんとかなると思った。ちょうど、諸行無常が、実は輪廻になるようにね。そうそう、 [#ここからゴシック体] [#1字下げ]円周上に一点を取り、これを回転させれば、この一点は時間軸にそってサイン線を描く。有為転変、諸行無常はしかく単純ではない。しかし、これを合成して行けば、限りなくそれに近づくことができる。 [#ここでゴシック体終わり] [#挿絵(img/fig13.jpg、横516×縦258)]  きみ、これを見ても輪廻から有為転変、諸行無常を考えることは易しいが、有為転変、諸行無常が輪廻であることを悟るのは難しい。有為転変、諸行無常は現実だが、輪廻は実現だからね。とまア、こういう訳で友人からそれぞれ三十万円、五十万円といったカネを借りて行って、二千万近く集めたんだ。もっとも、日歩五銭の利息をつけるといってね。 「日歩五銭? セイウチを打ち倒そうとする白熊のように、隙を見せたわけだな」  そりゃ、そのものを書こうとすれば、コップだって話はまったく違ってくるからな。しかし、友人はみな電話一本で、確実に返してくれるなら、利子などいらぬといって応じてくれた。ぼくはいちいち約束手形を書いて、キチンと日歩五銭の利子をつけて支払ったばかりか、支払った利子はこちらでは益金にして、損金として落とさないから、税務署に申告してもらうことはない。この申告がみなのほんとに嫌がるところだからね。 「そんなことをしてやって行けるのかな。銀行が日歩三銭、しかも利子は損金として落とせるのに、それでもなかなか大変だというじゃないか」  ところが、そうしてもカネがいるのは二十三日の手形落ち、小切手支払いと、月末の給料の支払いで、それを切り抜ければ、円環するのだから、あとはカネの必要はない。そこで、たとえ銀行から日歩三銭で借りられ、その利子は損金として落とせたとしても、そういうカネはその期間中借り通しに借りておかねばならぬから、こちらにとってはなお損失なのだが、友人たちはなにか日歩五銭の上に税を逃れたような気になるんだな。 「きみならそれぐらいの才覚はあるだろう。しかし、ほのかなるアルカディヤに思いをやってるというきみが、えらい幻術をやるじゃないか。いまもやってるのかい」  いや、地吹雪は去った。でなきゃア、また襲われたときに、友人に安心してシェルターになってもらえないだろう。きみとも会社はどこ吹く風で、こうして話していられないじゃないか。そもそも、幻術はいかにして幻術でなくすかというところに、幻術の幻術たるゆえん[#「ゆえん」に傍点]がある。哄笑はやがて遠ざからねばならぬ。 「哄笑が?」  得るところはあるもんだね。もしカネは貸す、しかしあすは返せと言われたらキツイことを言うなと思うだろう。これが二カ月でも三カ月でも貸すといわれたら、まあ心豊かな人だと思うだろう。二年でも三年でもいいと言われたら、もっとそうだと思うだろう。いや、あるときでいいんだよ、いつまででも貸してやるといわれたら、いよいよもってそう思うだろう。ところが、どうだろう。生きてるうちはいいから、死んだら絶対に落とさねばならない約束手形を書けといわれたら。 「死んだら絶対に落とさねばならない約束手形?」  もはや幻術はきかない。ずいぶんながい道のりだったが、ぼくはここに至って、ようやく死生観というべきものに達したよ。生きているうちはとにかく、死んだら絶対に落とせという約束手形、そういう賭をするものは、だれだろう。ここに意味は変容して宗教となる。かかる意味の変容は、時間が驚くべき吸収性を持ち、想像を絶する濃度を有するばかりでなく、幽明境に達しうる、したがって通過しうる唯一の道をなすからだ。百年の目を以て見る人は、十年の目を以て見る人とはおのずから違う。千年の目を以て見る人とはさらに違う。なぜなら、このようにして歴史すら意味を変容して哲学になっていく。その理はまったく同じだ。このような例は枚挙に暇がない。したがって、すくなくとも、ぼくらはまず極小において見、極大において見、はじめて思考の指針を現実に向けて、その意味を変容において捉えなければならぬ。もし、ぼくがきみの驥尾に付して、何か書くようなことがあったら、この意味の変容において書くだろう。 [#改ページ]   エリ・エリ・レマ・サバクタニ  黒人サキソフォニスト、サミューエル・ジョンスンの名は、まだ多くの人々に記憶されているであろう。サキソフォンと呼ばれる当時の新楽器が、毀誉褒貶にさらされながらも、ジャズの代表楽器とされるようになったのは、サミューエルの出現によるものだから。  だが、そのサミューエルがいまも生きていると思っているものはなかった。生きていれば、あれだけ熱狂されたサミューエルの消息を聞かぬはずがない。たまたま想いだされて話題にのぼっても、だれもがそう言ってその生存を信じようともしないのである。しかし、サミューエルは生きていて、いつもスラム街の酒場に入りびたっていた。酒がなければいっときもいられない癖に、飲めばすぐ酔って、たわいなくなるのである。  浮浪者たちは、このたわいもない酔っぱらいをサミューエルと呼び、 「似ているね。まるで、サミューエルが蘇った[#「蘇った」に傍点]みてえだ」  と、言った。現に、サミューエルがそこにそうしている酒場でさえ、サミューエルはサミューエルと思われていないのである。なんと思われようとかまわないが、この蘇った[#「蘇った」に傍点]には、サミューエルも苦笑せずにいられなかった。冗談じゃねえ。なんだか、おれが死んでるみてえじゃないか。 「そんなに似てるかね。似てると言ってくれるのはありがたいが、ビルと呼んでもれえてえな。ビルがおれのほんとの名だから」 「ビルがお前のほんとの名? ビルはサミューエルのほんとの名じゃねえか」  どっと哄笑が巻き起こった。ちょうど、神たちが哄笑でもするように。ビルと呼ばれたいなら、サミューエルになれといわんばかりである。  なんてことだ。おれはもうただのビルになるつもりだったのに、それもできないとは。と、サミューエルは考えた。おれはもうなにもの[#「なにもの」に傍点]でもなくなったのではあるまいか。死とはなにもの[#「なにもの」に傍点]でもなくなることではなく、すくなくともなんぴとかにとって、現実としてあったものが、実現と呼ばれるところのものになることだ、とあの人は言っていた。しかし、それもただ他人様にとってのことだけじゃねえか。こりゃあ、驚いた。  サミューエルはおどけて太い両腕を拡げ、黒人特有の白いたなごころを見せながら、煤けた天井を仰いでつぶやいた。 「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(Eli, Eli, L�a Sabachthani) ?」  言うまでもなく、イエスが十字架上で言った言葉で、「神よ。神よ。なんぞわれを見捨て給うや」との意である。ちょっとイエスを気取ったまでのことだが、なんだ、まだ飲みてえのかというように、哄笑の中から浮浪者のひとりが、半飲みのコップを差し出した。 「なにも、エリアを呼ぶこたアねえさ。さ、これでもキューッとやって、そこにあるのを吹いてみな。サミューエルのサキソフォンは、ちょっとそこらの真似のできねえものだったよ」  聞いたふう[#「ふう」に傍点]なそんな口をききながらも、ただそんな口をきいてるだけで、むろんサミューエルの吹奏を聴いていようはずもなかった。  だれかが飲みしろのかた[#「かた」に傍点]に置いて行ったのであろう。汚れた壁にはずっと前から古いサキソフォンが掛けられていたが、これもいまでは埃をかぶった壁飾りのように忘れられ、いたずらにも手に取ろうとする者もいなかった。こんなところでも、サキソフォンは歓迎されなくなり、往年の栄光になろうとしていたのである。というのも、サキソフォンは精妙巧緻、クラシックのそれを凌ぐという意味で、斬新な楽器とされていた。しかし、ジャズは必ずしも斬新であろうとするものではない。クラシックの精妙巧緻を粉砕して、始原をとり戻そうとするものである。サキソフォンに対する毀誉褒貶も、むしろサミューエルによって、その精妙さが極度に発揮されるという矛盾から来ていたのだ。  だが、サミューエルが浮浪者の仲間におちたのは、サキソフォンが往年の栄光になったからではなかった。毀誉褒貶をしり目にサキソフォンが脚光を浴びたのは、サミューエルによってサキソフォンの領域が切り開かれたからである。もし、サミューエルがサキソフォンを捨てなければ、サキソフォンはいよいよその領域を切り開いて、忘れられることはなかったであろう。  といって、サミューエルがその吹奏する精妙な音色が、その精妙さのゆえに誹謗されるという矛盾に、いや気がさしたのではない。しかもなおジャズとして、クラシックに受け入れられぬのを、あきたらずとしたのではない。いかに精妙な音色をもってする吹奏も、ただ群集にむなしい問いを問うにすぎないことに絶望したのである。  だが、問いを問うということこそ、この私が近傍[#「私が近傍」に傍点]の中心に矛盾として実存するということではなかったのか。かくてサミューエルによってサキソフォンの領域が開かれたので、問うことをやめると、サミューエルはじじつなにもの[#「なにもの」に傍点]でもなくなってしまったのだ。とすれば、立って壁からサキソフォンをとり、口にあてて音色を出してみせたとしても、もはやなんの証明になるだろう。そういえば、あのサミューエルという名にしてからが、もとからの自分の名ではなかった。あの人を懐かしんでその名を借りたのだが、こうしてあの人のことを考えていると、恍惚として自分があのころのビルになる思いがするのである。ちょうど、サミューエルになれたので、ビルと呼ばれることができたというように。  なんといっても、あの人は世界が広く、どこに行っても同胞がいるということを、教えてくれた最初の人だった。死ですらもまるでこの世のように語ったのだ。若く、明るく、だれともよく話してくれたから、子供たちはみな牧師さまというよりも、友だちと思っていた。その上、あの人は見掛けによらぬ力持ちで、軽く手でリンゴをぱんと二つに割り、その一つをくれて左の肱を曲げ、手の甲を腰にあて、右膝をまっすぐ立った左脚にちょっと掛けて、さも愉快げに自分もほおばりながら、分かちあうことを喜んでいるようだった。みなが驚きの目を見張ると、あの人は哄笑して、 「そりゃあ、サミューエルだもの」  と、言った。そしてあの人は、サミューエルという名は、きみたちの知っている力持ちのサムソンから来たのさなどと教えてくれた。  だが、あの人はいつからともなくいなくなった。すると、あれはほんとの牧師さまではなかったので、教会にいられなくなったのだと言う者がいた。そう言えば、あの人には牧師さまらしいところがすこしもなかった。そうではなくて、差別することを知らなかったからだと言う者がいた。あの人は街のマリアたちとも楽しげに話していた。いや、ほんとうは黒人差別と戦うために、途方もなく恐ろしいことをたくらんでいたので、かえってあんなになに気もなく、楽しげにみせていたのかもしれない、とさも恐ろしげに言う者すらあった。そう言われると、ビルにはサミューエルというのが、いかにもそんな人にふさわしい名のような気がしたのだ。  べつに取り立ててなにをしたという訳でもないのに、だれもがあの人のことを忘れず、バルチモアに行ったとか、ラスベガスにいたとか言っていた。サミューエルはそれをふと興行先で想いだして尋ねてみたが、心当たりのあるようなことを言う人は、バルチモアにもラスベガスにもいなかった。それもそのはず、あの人がバルチモアにいるとか、ラスベガスにいるとか聞いたのは、遠いむかしのまだ子供のころだった。あるいは、もう死んだのかもしれぬ。そんな気もしたが、思いがけずあの人が手紙をくれたのだ。むろん、まだサミューエルが全盛のころで、いまではもうあの人も生きていようはずもないのに、そのことを想いだすとサミューエルはまさに自分があの世にいて、かえって遠いこの世からの声を聞くような気がするのである。  なつかしいビル! わたしがあのサミューエルだと言ったら、きみはかつてのビルのように、わたしを想いだしてくれるだろうか。すくなくとも、わたしはきみがサミューエルだと知ったとき、呆然としていつかわたし自身がビルになり、かつてきみが年少の日に夢見たであろうところのものになって、脚光の中に立っているように思われた。  なんとすばらしい吹奏だったろう。わたしもきみたち子供らに、よく口ラッパを吹いて聴かせてやったことがあった。物語を読んで聞かせてやったことがあった。しかし、わたしはこうして発達して来た芸術に、二つの大きなジャンルがあると思っていた。たとえば、絵画や詩や彫刻は目にパッと飛び込んで来る。音楽は否応もなく耳にはいって来る。芸術はいわばこうしたそれみずからが強制力を持つところのジャンルと、物語のように一頁一頁めくってもらわねばならぬジャンルに分かたれるのだ、と。  わたしはそうした自覚によって、せめてひとつの物語をものし、できないまでもこの人生を反復してみたいと思ったのだ。反復は過去のある一点からはじめるにしても、すでにわたしはその一点から、未来に向かって立つように立たねばならぬ。ちょうど、現瞬間に立ち、ただ演繹によって未来に立ち向かわねばならぬように。しかも、いかなる川がわたしを遮り、いかなる山がそばだつかもしれぬように、反復にあってもいかなる川がわたしを遮り、いかなる山がそばだつかもしれぬようであらねばならぬので、それが帰納的事実としての川であり、山であるときは、たちまちたんに想い出にすぎないものとなってしまうのである。  きみもむろんなにか遠い感動的な想い出が、まずきみにある音を吹奏させるに違いない。しかも、きみはきみの未来にきみを遮る川を予感し、きみの前にそばだつ山を予感するがごとく、川を再現し山を再現して行く。おそらく、きみはいかなるものからもその意味を取り去ることによって構造し、構造することによって意味を見いだしているのであろう。そこでは、まさに時間という一次元空間が、いかなる空間の矛盾も遅速の矛盾に置き換えられて直進[#「直進」に傍点]し、この直進によってあらゆるものが整列[#「整列」に傍点]され、整列されたことによって時間を感じさせて行くように現れては消え、消えては現れて来る。  わたしはふと考えた。わたしは一頁一頁めくってもらわねばならぬジャンルとして、物語なるものを考えていたが、これが朗読されて声となるとき、それはもはや変換して、それみずからが強制力をもつところのジャンルになるのではあるまいか。もともと、そうした強制力を持とうとして、文体にリズムをもたせ、メロディーをもたそうとしていたのに、さようなものを捨ててもなお強制力をもつことの可能性をさぐろうとして、考えられたところのジャンルにすぎなかったのではなかろうか。  そんなことを考えるうちに、考えることすらも忘れて恍惚とし、ふと女たちの叫びを耳にして、イエスの発した声を想いだした。「エリ・エリ・レマ・サバクタニ?」あれは果たしてイエスの声だったのか。マリアと呼ばれる女たちの、われともなく発した心の声ではなかったのか。ともあれ、蘇り[#「蘇り」に傍点]の願望と合一するとき、恍惚の叫びになることを教えるものである。  感動のあまり、わたしもきみと相擁したいと思ったが、きみに近づこうとする群集が、わたしのきみに近づくことを妨げた。せめてわが名を叫んで、わたしがここにいることをきみに知らせたかったが、ひとはこの老人もまた、きみの名を呼んでいると言って哄笑するであろう。おなじサミューエルという名が、きみとわたしを分かつ境界をなしているように、このサミューエルという名に、わたしはおろおろするばかりだった。  だが、きみとわたしを分かつ境界が、このサミューエルという名であることに、感謝しなければならぬ。分かたれながらも、きみとわたしはおなじサミューエルと呼ばれるものであり、わたしはわたしのあるところ、きみもあるような喜びを持つことができるのだから。しかし、いまや境界はもっぱらわたし自身に属するところのものとなり、わたしはきみがはるかにわたしを、想い描いてくれることを望んでいるだけかもしれぬ。  わたしはすでに老い、きみにこの手でぱんとリンゴを二つに割り、そりゃアわたしはサミューエルだものと笑ってみせるような力もない。いかなるものからもその意味を取り去ることによって構造し、構造することによって意味を見いだそう。そうしてすべての概念なるものを変換しようと考えたこともあったのだが、もはやサミューエルのサミューエルたるゆえん[#「ゆえん」に傍点]を失ったのかもしれない。あるいは、すでにこの世のものでないかもしれないが、孤独なわたしの食卓にはなお一個のリンゴがあり、使いならしたナイフがある。当時をしのんで、ひとつリンゴを味わおうではないか。わたしのリンゴをむく手ぎわは、まだまんざらではないのである。  この真っ赤な皮をむくには、リンゴを切ろうとしてはいけない。こうナイフの刃の根元を果柄にあて、それを中心にして、なめらかにリンゴのほうを回すのだ。リンゴの全面をおおう真っ赤な皮がたえず細い帯となって、ナイフの刃から生まれ出て来るように見えるだろう。されば、わたしはリンゴの白い果肉であるところの領域を得ようとして、むしろ真っ赤な皮におおわれてあるところの領域をつくろうとしているので、これら二つの領域をなす境界は、白い果肉であるところの領域に属し、外部と呼ばれるところのものと見做すことができるであろう。  してみれば、白い果肉に属する境界は、幽明の境になぞらえてもいいのではあるまいか。このリンゴの果柄に根元をあてて、次第にその先端へと伸ばしつつあるナイフの刃渡りを時間と呼ばれる一次元空間とすれば、リンゴの果柄はまさに時間と呼ばれる一次元空間が、ふたたび戻れぬ[#「ふたたび戻れぬ」に傍点]方向をとりつつも、円環をなしてふたたび戻って来る[#「ふたたび戻って来る」に傍点]無限遠点となる。このようにして、境界がそれに属せざる領域として無限であるところの内部は、境界がそれに属する領域ではあるが無限遠点を持つところの外部の鏡像とされ、また同様にして外部は内部の鏡像とされるのである。したがって、わたしは生からして死を論ずることが許されるように、このように死からして生を論ずることが許されるだろう。  いま、外部とされる領域に属する境界に、時間と呼ばれる一次元空間が直交するとすれば、それは唯一の大円を描いて円環するであろう。しかし、もしそれが必ずしも境界と直交しないとすれば無数の円環の想定を可能とするであろう。ある宗教は時間と呼ばれる一次元空間が唯一の大円を描いて円環するところのものをもって世界とし、ある宗教はその無数の円環するところのものをそれぞれ世界として包含する。しかし、それがいかなる世界であったにしても、わたしがそこにいるというとき、すでに世界は内部なるものに変換し、境界がそれに属せざるものとして無限なるものとなるから、そこに大小なく対等とされねばならぬ。  きみはまだ小さくなにも知らなかっただろう。わたしが愛するきみたちのもとを去らなければならなかったのは、なにものもその意味を取り去らなければ、構造することができないとしたことが許されなかったのだ。そして、構造しなければ意味をなすことができないとしたことが許されなかったのだ。おそらく、ガリレイが審問にかけられたのも、これだったのであろう。なぜなら、彼等には意味を取り去ることは不敬であり、こうして得られた構造によって、新しい意味を見いだそうとすることは恐れであったからだ。だが、いったい、わたしはだれに対して、なにをなし得たというのであろう。わたしはただこのむかれ行くリンゴの真っ赤な皮のように、ひっそりとこの生を狭めて行くばかりではないか。  しかし、このようにして狭められて行く生も、じつはたえず死によって彫塑され、実現されようとしていると言えなくもない。してみれば、実現とは死であるのか。ここに生がつねに問わねばならぬ問いがあるのだ。なぜなら、現実は実現されることによって、はじめて実存するところのものとなるのだから。だが、もしこの問いをむなしとして、問うことを放棄すれば、わたしはただあるがまま[#「あるがまま」に傍点]にあるにすぎないものとなって、なにもの[#「なにもの」に傍点]でもないものになってしまうであろう。  ちょうど、このリンゴの白い果肉をあの世に譬え、幽明の境ともいうべき境界がこれに属するといっても、それはわたしが否応もなく拡がって迫って来る白い果肉を得ようとして、生になぞらえた真っ赤な皮を時間の刃でむこうとするかぎりのことである。むくことをやめれば、境界はそのいずれの領域に属するということができず、したがって白い果肉も真っ赤な皮も、もはやいずれが内部とも外部ともいわれず、ただあるがまま[#「あるがまま」に傍点]にあるにすぎないものとなって、なにものでもないものになってしまうであろうように。  しかし、問うことを放棄しなければ、どうであろう。実現されていく空間はつねに境界より一次元高い。たとえば、一次元空間をなさしめる境界が0次元空間であり、二次元空間をなさしめる境界が一次元空間であり、三次元空間をなさしめる境界が二次元空間であるように。しからば、一次元空間にすぎなかった幽明境に実現されたにすぎなかったいままでの生が失われたのではなく、更に次元を高められた幽明境とする高次元空間に蘇ったのではなかろうか。ここに恍惚の可能性がある。ピラトがイエスに問うたのもここである。  イエスは答えなかった。イエスにとって答えとは、問いを問うて大いなる問いに至ることでなければならぬ。それはあたかもわたしが、リンゴの真っ赤な皮をむき終わった瞬間に、似ているといえるであろう。そうだ、きみに一個のリンゴも、リンゴとリンゴ以外のものというとき、全宇宙になるということを話さなかったろうか。境界すなわちリンゴの全表面を覆う二次曲面は、リンゴ以外の全宇宙に属する領域となってリンゴは蘇る。ここに更に空間次元を高めることによる蘇りの可能と恍惚があり、リンゴもはじめて蜜流れるものになるのである。  だが、天に対して大いなる問いになろうとするイエスの試みも、ある人々の目にはゴルゴタの安っぽい野外劇とも映ったであろう。事実、イエスを誹謗した祭司長や律法学者、長老たちは兵士らとともに、イエスもまたかくて死ぬにすぎないことを嘲笑したというが、彼等はどうして天の哄笑を聞かなかったのだろう。  しかし、かのマリアたちは耳をかさなかった。彼女らは知っていたのだ。死ぬということこそ、現実が現実であることを失って、まったき実現になることを。したがってまた、みずからも現実であることを失い、高次元空間へと変換して、まったき実現になろうとするその瞬間こそ、イエスと合一することができるということを。すなわち、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ?」とは、この合一における彼女らの恍惚の叫びでもあったといえるであろう。  安息日を過ぎた朝、彼女らはイエスのなきがらを求めて来たといわれる。そこはもうハネた小屋のようにむなしかったであろう。イエスはすでに蘇り、ガリラヤに去ったとか、聞かされたであろう。だが、かのマリアたちはあの恍惚を想いだし、絶望にも似た疲労の中に、ほのかなる受胎を感じてほほ笑んだであろう。なぜなら、現実はつねに実現たろうとするように、実現はつねに現実たろうとし、かくてこそわたしはこの存在において、実存するところのものとなるのだから。 [#ここから3字下げ] 本書は『群像』一九七四年十月号より一九七五年二月号まで五回連載された雑誌発表形を全面的に改稿したものである。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   意味の変容 覚書 『意味の変容』を出版することになった。この出版に踏み切ったのは、柄谷行人さんの慫慂によるものである。柄谷行人さんはたんに慫慂して下さったばかりでなく、わたしがもし出版に踏み切らぬようなら、自分たちで出版するがいいかとまで言って下さった。また大学で『意味の変容』について、学生たちに話して下さったので、学生たちの間には、複写したものではあるが、『意味の変容』が僅かながらも拡がりはじめた。わたしとしてはむしろ望むところで、冥利に尽きるとさえ思っていた。 『意味の変容』は、かつて幾月かに亙って、『群像』に連載されたものである。そこまでしながら、なお出版しようと思いさえしなかったのは、どうみても統一がとれず、渾然として体をなしていなかったからである。それにはむろんそれなりの理由がある。世間ではわたしが二十歳で『酩酊船』を発表してから、六十歳で『月山』を発表するまで、筆を折って沈黙を守っていたように言っている。しかし、ほんとうは学校をやめると、すぐ奈良に行って遊び、光学会社にはいったが、これもやめて遊ぶ。更にダム会社にいて後、遊ぶ。つまり、およそ十年区切りで遊びまた働いていた。  雲を見、山を見、川を見ながら転々としていたときは、むろん愉快な日々だったが、光学会社でも、ダム会社でも充実した日々だった。どれ一つとして満足し切ってやめなかったところはなかったほどである。ではなぜやめたのかと不審がられる向きもあるかもしれない。むろん、生活のためであったには違いないが、それ以上になにか得るところあろうとして勤めたのである。したがって、なにか得るところがあったと思うとやめた。なにごとも十年かからなくちゃアとよく言われる。勤めてなにか得るためには、わたしにもその十年がかかったというまでのことである。  わたしは遊んでいる間、勤めによってなにか得るところがあったと思った、そのなにかとはなんであるかとよく考えた。わたしは学生のころから数学が好きで、数学だけはよく勉強した。しかし、学校をやめて奈良に行ってからは、手許に学ぶべき数学書もなく、次第に忘れ去ってしまって、忘れようにも忘れ切れない初歩的なことしか、頭に残らなくなった。それでも、なにか得るところがあると思ったそのなにかを、ようやくにして頭に残った、初歩的なことで考えた。それがまたわたしには楽しかったのである。  わたしは謄写版が好きだった。註文を受けて一夜で仕上げる。そうした仕事は、とてもわたしにできなかったが、手製の道具で時間を惜しまず、文字を書いたり、色を重ねて絵を描いたりすることにかけては、人後に落ちぬと思っていた。仕事といっては他にない。暇にまかせて光学会社について考えたことを謄写版にし、ほんのごく少数の友人に送った。鳥海山の麓にある農漁村吹浦にいたときのことで、これが光学会社について書かれたもので、『意味の変容』における「死者の眼」である。  友人たちはみな親しい間柄であったから、厚意にあふれた返事をくれないものはなかった。しかし、世間には数学と聞いただけで、忌避するものがある。かと思えば、数学を以て語られているというだけで、信用せずにいられなくなるひとがある。厚意にあふれた返事の中にも、はやくもそうした傾向がうかがわれた。してみれば、『意味の変容』の出版には、そうした傾向が更に歴然として来るだろう。ただ、わたしとしては『意味の変容』は、『月山』『鳥海山』に書かれずにいた、わたしの生涯ともいうべきものを書き綴ったものである。数学めいたものに論拠を置いて語られているからといって、忌避されることのないように祈りたい。また、数学に通暁される方には、この数学めいたもののあまりにも初歩的なものだと言って、憫笑せられざるように願うものである。  わたしはやがてダム会社に勤め、勤め上げて越後一の宮弥彦神社に近い山中に遊ぶ身となった。当然のことながら、わたしはダム会社で得て来たものはなにかと考えた。光学会社とダム会社では、その仕事の性質から言っても、まったく違う。にもかかわらず、いずれにも言えることがひとつある。それは外部から見ればどちらが大きい、こちらが小さいということは言える。しかし、内部から見れば等しく世界であって、どちらが大きい、こちらが小さいなどということは言えない。これはなぜか。いずれにしてもわたしたちは近傍[#「近傍」に傍点]を世界としているからである。  現代数学の粋といわれるトポロジーは、一言でいえば近傍[#「近傍」に傍点]の一語に尽きるとされている。わたしはそういう観点に立つことを避けて、もっとも分かりやすく説くためには、どうすべきかと考えた。いま任意の円を描けば、内部といわれるものができ、外部といわれるものができる。ところで、内部といわれ、外部といわれるものに分かった円周をなす境界は、内部、外部のいずれに属するか。境界は外部に属して、内部に属しないとするとき、この内部を近傍[#「近傍」に傍点]という。数学といってもただこれだけのことを知って戴ければいいのである。この考えからして、『意味の変容』の「宇宙の樹」が生まれた。  但し、この近傍[#「近傍」に傍点]は双曲線空間、すなわち非ユークリッド空間をなす。わたしたちはつねにかかる空間に、矛盾として実存するが故に、かえって理想空間としての、ユークリッド空間を構築したのである。しかし、近傍[#「近傍」に傍点]を壺中の天になぞらえたのみで、敢えてこの問題に触れなかった。譬喩を以て逃れようとしたのではない、煩を恐れたのである。  わたしは月山を望む大山という町から、上京して印刷屋に勤めた。むろん、光学会社やダム会社とは比較もできぬ小さな工場だったが、その小ささがかえってわたしの近傍[#「近傍」に傍点]という考えを不動のものにした。たまたま『群像』に連載の機を得たので、全篇に亙ってこの考えを浸透させた。それから十年、このたびの出版に踏み切るにあたって、面目を一新させるほど筆を加えた。それはわたしにとって苦しい作業だったが、いま大いなる歓びにある。柄谷行人さんへの感謝の念を、新たにせずにはいられない。   一九八四年八月十五日 [#地付き]森 敦 森敦(もり・あつし) 一九一二年熊本生まれ。一九八九年没。横光利一に師事する。一九三四年「酩酊船《よいどれぶね》」を「毎日新聞」に連載、太宰治、檀一雄たちの同人誌「青い花」の創刊に参加するが、その後ながく創作の表舞台を去っていた。一九七三年「月山」で芥川賞を受賞。「鳥海山」などの作品を発表する一方、言語論、宇宙論にも独自の見解を示し本書『意味の変容』を発表。ほかに『わが青春わが放浪』『われ逝くもののごとく』(野間文芸賞)『マンダラ紀行』『森敦全集』(全八巻別巻一)などがある。 本作品は一九八四年九月、筑摩書房より刊行され、一九九一年三月にちくま文庫に収録された。